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批判的に読み解く歎異抄 №24 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場
 
        立川市・光西寺住職  寿台順誠

③十五条 ― 即身成仏

 それでは十五条に行きましょう。これはあまり長くないですが、これも最初の方だけ読んで説明したいと思います。

 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり.。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。

 この後は読んでおいて頂きたいのですが、ここで批判しているのは「即身成仏」であって、それは「真言密教」や「法華一乗」の教えで言われていることだと言っています。それで、これらは聖道門の教えに属するものですから、この批判の対象は「一念義・造悪無碍」であるというよりも、「多念義・専修賢善」の方に近いものだということは言えますよね。
 それに対して、浄土真宗で強調するのは「即得往生」(現生正定衆・現生不退)ですね。これは現生において信心を獲得したその瞬間に往生が定まるということですが、しかし未だ往生したわけじゃありません。穢土と浄土に分けるならば、生きている限り私たちはこの穢土に居るわけですから、まだ浄土に往ってしまったわけではないのです。ところが、それを取り違えて「即身成仏」と同義であるように吹聴する人があるので、それを異義として批判しているわけです。「即身成仏」とはこの世に居ながらこの身のままで成仏するって話だから、穢土と浄土の境をなくしてしまうことになるのです。浄土門からすればそれは異義だと批判することは正しいことだと私は思います。
 だけれども、むしろ本当に問わねばならない問題はここからなのです。それはどういうことかというと、「即身成仏」と「即得往生」とではどちらがより「造悪無碍」に近づくかという問題が残っているということです。これはなかなか難しい問題ですね。ここには、実は宗教的な観念と倫理道徳的な観念はそれほどストレートにつながるわけではないという問題がさらに根底にはあるわけです。つまり、「専修賢善か、造悪無碍か」といった倫理道徳的なレベルのやりとりは、「即得往生か、即身成仏か」という宗教教義のレベルのやりとりにストレートに対応する訳じゃないということです。「即身成仏」でも「即得往生」でも、受け取りようによっては、どちらからでも「造悪無碍」は生まれます。一回念仏すれば救われるという「一念義」は特にそうで、既に浄土に往くことは定まっているのだから後は何をやってもよいじゃないかということになるならば、「即得往生」こそ「造
悪無碍」につながりやすいと言えますね。が、また「即身成仏」の方にしても、この世こそが浄土なのだからもう何をやっても許されるという形で、場合によっては悪を正当化することになりますね。「即得往生」でも「即身成仏」でも、どっちだって「造悪無碍」にはつながっちゃうわけですよ。でも「即身成仏」の場合には、この身のままで既に仏さんだと言ったら怪しいわけですが、今はまだ仏でなくとも、将来、仏に成るために努力するという意味もあることは認めなきゃいけないかもしれません。その場合には、「即身成仏」は「造悪無碍」よりもむしろ「専修賢善」の方につながりやすくなるのではないかと思います。
 このように、「即身成仏」には「即得往生」よりも「専修賢善」につながる要素は強いということもありますので、それを批判するこの十五条もやはり「造悪無碍」批判の条文として読むことはできないと思います。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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