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多摩のむかし道と伝説の旅 №58 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

     中世の軍道 深大寺道を行く 3

           原田環治

深大寺道4-1.jpg 富士街道を横切り榎ノ木通りに入る。因みに富士街道を東に200mも進めば西武新宿線の西武柳沢駅がある。榎ノ木通りは集落の中をうねうねと縫う細い街路だ。ほどなく車の行き交う新青梅街道と交差する。新青梅街道を渡り更に進むと保谷街道に出る。保谷街道を横切り泉町に入ると左手北西方向へゆるやかにカーブする。すると右手後方から関道が合流する。合流点のすぐ先に三差路があり、その一角に古びた庚申堂が立っている。堂内には青面金剛像が祀られている。傍らの由緒書によれば、この辺りは榎の木と呼ばれ、当初は江戸時代の高札場であり、上保谷村の中心であったことから、榎の木の庚申様と呼ばれたという。台石には二鶏と三猿が刻まれ、その上に邪鬼を踏みつけた青面金剛の全身像が立っている。 江戸八丁堀松屋町のいずみや三郎左衛門の作で、正徳4年11月22日(1714)武州新倉郡上保谷村の18人深大寺道4-2.jpgの講中によって造立されたとなっている。もとは6腕であったが、昭和20年(1945)、米空軍の爆撃で、向かって右2腕と左1腕が失われたという。
 庚申堂を後にして泉町の集落の中を進む。ちなみに沿道右手100mばかり入った集落の中に江戸時代中頃創建の宝樹院という真言宗智山派の寺がある。山号を慈光山と号し保谷四軒寺の一つと言われる。やがて横山道と称する道と交差する。横山道の名の由来についてはこの道筋が横山(現八王子)に通じる道筋であったからという。すなわち平安末から鎌倉時代初頭にかけて横山は武蔵七党の一つ横山党の本拠地であった。横山党は多摩丘陵(古くは多摩の横山と呼んだ)を望む八王子の横山を本拠に活躍した武士団で、鎌倉幕府草創期に重要深大寺道4-3.jpgな役割を演じた。横山道とはそんな横山から保谷を経由して新座を結ぶ古道であり、中世の武士達や軍馬はこの道筋を往還したのであろう。なお横山道に沿って北東方向へ100mも進めば沿道に寶晃院、東禅寺、尉殿神社、如意輪寺と寺社が軒を並深大寺道4-4.jpgべている。寶光院と東禅寺、如意輪寺、それに先の宝樹院を加えた四ヶ寺を保谷四軒寺と呼ぶ。保谷四ヶ寺の寶晃院は真言宗智山派の寺で正式には金輪山寶晃院明王寺という。 尉殿神社の別当寺である。東禅寺は祥高山東禅寺という曹洞宗の寺で、元は田無にあった西光寺が移転してきたものという。如意輪寺は真言宗智山派の寺で山号を光明山と号す。創建年代は不詳であるが江戸時代初期と思われる。なお尉殿神社は永正2年(1505)の創建との社伝があるが、建長年間(1249~1256)の創建とも言われる。祭神は級長戸辺命(シナトベノミコト)と天照大神。江戸時代終りまで本地垂迹思想に基づき尉殿権現と称され、水の神ジョードノを祭ったことに始まる。本地の神体は水の守護神倶利伽羅不動明王であり、垂迹(権現)の神は龍田風神の祭神級長津彦命(シナツヒコノミコト)と級長戸辺命の男女二座という。
 横山道を越えると街路は一段と狭くなり、左に直角に折れて数10m進めば南北に走る、いささか広くなった谷戸住吉通りに入る。おそらくここで元の深大寺道の道筋に復したものと思われる。ひばりが丘中を右にやり、小さな住吉第4公園を右にやりすごすと、やがて東西に走る広い車道に出る。前方には背の高いマンションが望見できる。西武池袋線のひばりが丘駅の界隈に来たのだ。車道を渡りうねうねと道なりに進むと、ほどなく高層マンショ深大寺道4-5.jpgンの裏手に丁字でぶつかる。左へ折れて50~60mも進めばひばりが丘駅へ向かう都道112号線に出る。右折して通りを北に採れば正面がひばりが丘駅で、左右に西友やパルコ等賑やかな駅前のビル群が現れる。
 駅の西側のパルコ前で踏切を渡り「ひばり銀座商店街」の路地に入る。賑やかな商店街を抜ける辺りにミラーのある辻がある。その辻を右折した後再び北へ向かう通りに入る。通りは西東京市を離れ東久留米市と新座市の都県境に沿う道となる。集落を抜けるとやがて広い県道234号線に合流する。合流点の左50mばかりの所にこんもりと鎮守の森に覆われた小さな浅間神社がある。合流点に戻り、S字状に蛇行する県道を右へ100mばかり進んでヤオコーのある丁字路帯で再び北へ向かう深大寺道4-6.jpg通りに入る。通りに入ると程なく沿道左に古びた堂宇がある。中には馬頭観音の文字塔1基と刻像塔1基がある。刻像塔の台座には栗原と刻んであることから、この辺りの栗原村の講中が造立したものであろう。用水路のある集落を抜けると前方に橋が見えてくる。黒目川にかかる神宝大橋だ。橋上から黒目川の上流に目をやると支流の落合川が合流している様子が望見出来る。因みに黒目川は都立小平霊園内の遊水池「さいかち窪」を水源とし、小刻みに蛇行しながら東流する。一方落合川は黒目川の支流で南沢緑地の4箇所の湧水を水源に北東方向へ流れ、深大寺道4-7.jpgこの神宝大橋のすぐ上流で黒目川に合流している。合流後の黒目川は新座市南部を蛇行を繰り返しつつ流れ下り、朝霞市に入って新河岸川へ注いでいる。
 神宝大橋を渡ると右手路傍に小さな堂宇がある。中には摩滅した庚申塔が1基納められている。栗原では庚申塔が多く、その多くが三叉路に立っていた。村内に流行病等が進入しないように村の三方に祭られたのが始まりだという。戦前までは庚申の日に住民が集まって一晩中お祭りをしたというが、今はその風習はなくなってしまったとのことだ。(つづく)


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