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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №50 [文芸美術の森]

        歌川広重・東海道五十三次シリーズ

                           美術ジャーナリスト 斎藤陽一

                     第1回 はじめに~広重登場~
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≪「名所絵」の絵師・広重≫

 私の“日本美術へのオマージュ”とも言うべき「日本美術は面白い!」シリーズは、2019年1月の第1回「琳派~俵屋宗達」から始まり、第34回まで「琳派の魅力」を語ってきました。
 その後の第35回から前回(第49回)までは、「浮世絵の魅力」というテーマで、葛飾北斎の連作「富嶽三十六景」について話しました。
 引き続いてこれからしばらくの間も、広重、歌麿、国芳、写楽などを取り上げながら、「浮世絵の面白さ」を語っていきたいと思います。

 「北斎」の次に登場するのは「歌川広重」です。ここでは、広重の代表作である連作「東海道五十三次」と、晩年の連作「名所江戸百景」に焦点をあて、その中から選んだ作品を重点的に紹介しながら、その絵画世界の特質と魅力をさぐってみたいと思います。

 歌川広重(1797~1858)は、葛飾北斎(1760~1849)と同様、江戸時代後期に活躍しました。北斎よりは37年あとの生れです。

 当初、広重はさまざまなジャンルの浮世絵を手がけましたが、やがて「名所絵」(風景画)において独自の画風を確立し、この分野に数々の名作を残します。

 広重はまた、北斎とならんで、19世紀後半から20世紀にかけての西欧芸術に大きな影響を与えた画家のひとりです。
 印象派の長老カミーユ・ピサロ(1830~1903)は広重の絵を見たとき、「広重は印象派だ!」と言ったそうですが、実際には、半世紀ほど先行していた広重や北斎の方が印象派の画家たちに大きな影響を与えたのです。明治開化期の日本が西洋に放出した浮世絵が、ピサロやモネが成し遂げた「印象派革命」という絵画革新の起爆剤となったのです。

≪幕臣から浮世絵師に≫

◎広重が絵師になるまでの生い立ちをおさえておきましょう。

 広重は、寛政9年(1797年)、幕府に仕える定火消同心・安藤源右衛門の子として、江戸・八代洲河岸にあった定火消屋敷の一角で生まれました。幼名は徳太郎。
 定火消同心はいわば幕府“消防庁”の役人。火災が起こった際には、火消し人足とともに現場に駆けつけて消火にあたる役目の下級幕臣でした。

 ところが、徳太郎13歳の時に、両親を相次いで亡くしてしまう。徳太郎は、少年ながら定火消同心の家職を継ぎ、安藤重右衛門と改名しました。
 幼い頃から絵を描くことが好きだった重右衛門は、火消し同心を勤めるかたわら、絵を描くことに熱中、15歳のときには、歌川派の浮世絵師・歌川豊広に弟子入りします。師匠からもらった画名が「歌川広重」。師匠の「豊広」から「広」をもらい、それに「重右衛門」の「重」をくっつけたのです。

 しばらくの間、広重は火消し役人と絵師という“二足の草鞋”を履いていたのですが、ついに27歳の時、家職を子の仲次郎に譲り、絵に専念するにいたります。つまり27歳の若さで“隠居”したのです。好きな絵のためとは言え、思い切った転身です。

≪初期には「美人画」を描いていた≫

 初期の広重は、歌川派一門が得意とした「女絵」(美人画)を多く描いています。そのような初期の「美人画」をひとつ見ておきましょう。

 下図がそれ。
 「外と内姿八景」というシリーズ名のついた4枚揃えの中の1枚で、「ろうかの暮雪 座敷の夕せう」と題されている。広重25~26歳ごろの作です。
 このシリーズの趣向は、部屋の中に芸者や遊女を大きく描き、それに呼応する外の情景を小さな円の中に描くというもの。

 この絵に描かれている場所は、深川仲町の料亭。部屋の中で手を打って仲居を呼んでいるのは深川芸者です。なかなか色っぽい風情ですね。

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 右上の円の中には、それに応じて障子を開ける仲居が描かれています。「姐さん、なにか御用?」と言っているのでしょう。
 外には雪が降り続いており、欄干や廊下にはうっすらと雪が積もっている。

 廊下に置かれた大きな風呂敷包に注目。これは「夜着包み」、あるいは「通い夜具」と呼ばれ、当時の花柳界の風俗を示しています。
 幕府による厳しい取り締まりを避けるため、深川の料亭では「芸者は客の御酌をするために呼ぶ」という建前にして、夜具(布団類)を置きませんでした。そのため、呼ばれた芸者は、男衆に「夜着包み」(寝具一式)を担がせてやってきました。それが廊下に置いてあるのです。
 だから芸者は、客の男と一夜を過ごすことを前提に来ていますし、この絵では描かれていませんが、芸者の右側には客の男がいるはずです。

 芸者の着ている着物の色は、寛政の改革で打ち出された“奢侈禁止令”の煽りを食って、地味な茶系統に限られていますが、その組み合わせは洗練されており、柄模様も念入りに描かれています。描線も滑らかで、立膝をたてた脚の丸味をおびた線などは、柔らかい身体の感触を暗示しています。
50-5.jpg 深川芸者は、粋で気っぷがいいことを売り物にしていましたが、そのほんのりとした色香が伝わってきます。
 若き広重が「美人画」の分野においてもなかなかの腕前をもっていたことがわかります。

 この頃の広重は、ほかに役者絵や武者絵なども描いています。
 しかし、江戸の町なかにはたくさんの浮世絵師がおり、歌川一門だけでも大勢の絵師を抱えているという状況の中で、広重はなかなか芽が出ませんでした。
 そのような不遇な時期、勉強熱心な広重は、狩野派の技法や南画、四条派といった他派の絵を学び、時には西洋画の技法を熱心に学習したようです。これらは、のちに広重が「風景画」のジャンルで活躍するときの豊かな土壌となったのです。


 次回は、広重が「風景画」に開眼するきっかけとなった作品を紹介します。

                                                                  (次号に続く)



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