過激な隠遁~高島野十郎評伝 №37 [文芸美術の森]
第六章 個展の会場で
早稲田大学名誉教授 川崎 浹
異次元の遠近法
また野十郎が独学なのでかれの絵には遠近法がないとか、のっぺりしているという印象批評もある。しかし、たとえば完工の塔奈良薬師寺》は空気が透いて見えるようなデザインふうの作品だが、そこがおもしろい。人が「おもしろい」というのはその作品に魅力があることを示唆している。まず最初に魅力をおぼえるほどの作品であれば、広告のデザインだろうと、厚塗りの油絵だろうと、ジャンルの違い、抽象具象を問わない。いわんや遠近法があるのないのというのは専門家の領域に属することだ。
『風景画論』の著者ケネス・クラークも言っているが、厳密に科学的な透視図法は自然主義芸術にとってはたいして役にたたない。教師がそれを学校で教えても、生徒たちはこの法則を応用する機会がない。「これはアカデミックな教授法のプラトニズムの一例である」と皮肉っている。むしろ遠近法は自然を措写するさいの足かせになる。
《空の塔》が絵葉書になることを邪魔しているのは、薬師寺の実物をさえぎる手前の松とその位置である。浮遊感をただよわせ左空の雲も、絵葉書の側からいえば邪道だろう。
絵葉書になりそうで、絶対にそれを拒否しているのは《寧楽の春》である。
後方の塔を隠すために桜や松の樹や草叢や花々を華々しく描いて、絵葉書の対象になるはずの塔をのぞき見させるにとどめている。これこそ「空気」がバロックふうに、かつ神々が細部にこもる独自の筆致で描かれている。しかもここに措かれているのは「空気」は空気でも透明なものではなさそうだ。
婚礼の華燭の典にはそのじつ、白装束の血の色とその臭いがある。人びとは春は桜と酔いしれるが、実は冬山の雪のなかに置き残された遊女の錫(しゃく)の白拍子が打ち鳴らす音の狂乱が漂い流れて樹々にしみつき、春になって妙に白っぽい桜の花びらを、かと思うと紅い花をも咲かせる。《寧楽の春》は百花繚乱とはならず薄緑茶系の松の樹に左右から浸蝕され、奇妙にしなる小樹も二本あり、ただの自然の風景ではない。
野十郎の姉スエノが娘の国代に連れられて、最晩年の野十郎を訪れた際に画家が形見として贈った作品に、《睡蓮》がある。一見、平ったいようでありながら、というより平ったいことのみごとさに私は魅かれる。画家は増尾のアトリエのそばに土地を借り、自ら蓮の池をつくって、それを描いたのだが、絵のなかにあるのは異次元の世界である。そこではこの世の遠近法は通用しない。
五輪の睡蓮と二つの芽が主題そのものとして鎮座している。右上に位置する開きかけた睡蓮を微細に調べると花弁が八枚あり、少し理屈づけると、これは宇宙の法身である大日如来がすわる蓮華台ということになる。画面にはさらに中心をとりかこむ四仏としての四つの花弁が配置されている。そうした図式や、睡蓮が純粋さのシンボルであることに気づかずとも、私たちはこの絵に静誰な浄土の異界を見ざるを得ない。紫の水面と睡蓮の葉の緑、淡い茶色の芽や杭、それぞれのモチーフ間における抑制された色彩の配合やすばらしい構図が心に染み入るようだ。
遠近法に話をもどすと、野十郎が学生時代に模写した正確な魚介類図を参照すれば、かれの基礎的な技法の確かさがよく分かる。しかも工夫考案の才と論理的な思考回路の持ち 主だった野十郎が独学ではあれ、「遠近法を知らない」という指摘が本人を前にしてなされた、と画家は苦笑していた。かれが科学を烈しく批判していたことは事実だが、それはまた別種の問題である。
空の塔 奈良薬師寺
睡蓮
『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社
2020-09-29 09:25
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