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渾斎随筆 №66 [文芸美術の森]

平泉行き 2
                          歌人  会津八一

           (二)

  三月十四日午後四時すぎ、上野に着き、二三人の弟子たちに迎へられて、新宿の中村屋に行って一泊し、十五日夕刻に上野から中村屋主人を同伴して平泉へ行った。真夜中ごろ仙臺の驛から「河北新報」の事務局長他一名が案内役として同乗。翌朝六時に平泉に着いた。
 春といっても、どんよりとして寒い室に、粉雪さへちらつく日で、しかも早朝のことであり、村の人たちは、あまり行き来もしないのに、津田博士は出迎へられた。まへまへから、到着の朝は迎へに行くといふたよりがあつたから、ほかに案内人があるからと、電報で辞退をしておいたのに、七十八歳の老體をおして出てくれられた。すぐに津田さんのところへ行った。この村としては大きな瀬戸物星の奥座敷で、たくさんの書物が床の間にも、机の上にも、塵の上にも積まれてあった。そして床には「無」といふ一字を大きく書いた掛物がかかって居た。今の世に稀なこの大学者は、戦時中に東京を離れて、ここで晩年の仕事をして居られるのであった。
 私の方は、東京の宅が焼けて、何もかにも無くしたのは、終戦の年の春であったが、われわれ二人はそのずつと前から、たがひに自分の運命と戦ってゐたので、ずつと久しい間遇ふ機會が無かった。たぶん六年ばかりになるらしい。けれども今遇って見れば、頭の髪などは、いくらか薄くなったといっても、私などよりは、もつと黒く、動作も若々しく、驛へ出てくれられた時などは、雪の降る中を傘もささず、帽子もかぶって居られなかった。
 この人は、四月にもなれば、東京の郊外へ引き上げるといふのを聞いたから、この東北の寒村で、わび住まひのありさまを、私はしきりに拝見したくなったが、磐越は連絡がよくないといふから、東京を迂回して、はるばるやつて来たのであるから、かうした元気な姿は私にとって何よりもうれしかった。午後から、津田さんの案内で、長い石段を上って中尊寺へ行って、つぎつぎと講堂をめぐって見物した。寺では、近いうちに「朝日」の主催する研究團が来るといふので、本坊の障子の貼りかへをやつてゐた。そんなところへ、會津が突然やって来て、津田をそそのかして、二人で何かやるのでないか。どうも何かやるらしい。それは何をやるのか。さういふことが、だいぶ人の神経を刺戟したものか、私に随行した「河北」のほかに「朝日」や「毎日」の記者たちが寫眞機を提げて、行くさきぎきへ附いて回って、私たちが足でも止めれば、すぐ「ご感想」を問ふ。歌が出来たかと問ふ。もつと突込んで歴史論をたづねる。そして至るところで二人を並べてパチパチ撮ったものだ。あとで気がついたのであるが、こんな風にして書かれた地方版にほ、いろいろ面白い間違ひがあった。その中に、私をば日本学術會議の名誉會長にしてあったのもある。
 その晩は、驛前のある宿屋に泊って、翌朝は、はやばやと津田さんが誘ひに来られ、毛越寺の遺跡をたづねて、草むらの中に残ってゐる礎石などをたよりに、ありし日の俤をしのんだ。ちゃうどそこへ、平泉からほど近い水澤町に久しく住んでゐてずゐぶん久しく遇はない、私の弟の戒三がたづねて来たのもたのしかつた。
 それから義経が最期を途げたといはれる高い岡の上の高館の跡へ登って、四方を眺めて、しばらく感慨に耽った後に、津田さんやその外の人たちと汽車で仙臺についた時には日が暮れてゐた。驛舎の二階の食堂で、早稲田の校友達の歓迎會があって、私は二人を代表して謝辞を述べ、それから二人とも辮護士の佐藤茂といふ人の宅に狛ることになった。この人は、立派な邸宅の持ち主であり、一面に仙臺市復興の法律顧問であり、また一面には上等のお菓子の製造をやって居られた。けれども、それよりも私に興味の深かったのは、戦時中に、思想検事として新潟に居られたといふので、私などよりも新潟の事情に明るいことであった。文雅で親切な紳士で、われわれ二人の老人を、よくいたはつて、行きとどいた世話をしてくれられた。
 翌十八日はわれわれが「河北」の主催で講演をする日であるが、午前には、津田さんは東北大學のある研究室へ、知る人の招きに訪ねて行かれ、私は「河北」の三原君の案内で、伊達政宗の青葉城を見物した。
 講演は午後二時から、鐡道曾館でやった。津田さんは元號の問題、私は書道に関する問題について述べた。津田さんは元號廃止を主張されるのでないかと預想してゐる人が多かつたが、津由さんは、西暦は世界的だとはいふけれどもマホメット教の国々では絶封に用ゐないから世界的ともいひかねる。日本では、昔は支那のやうに、天皇の一代に年號が何度も変ったりしたこともあるが、すでに明治時代から一代に一元ときまってゐるし、新憲法では天皇は國家の象徴であるといふから、その國民生活の記録を元號で現はしても何のさしつかへもないわけだ。とかういふご説であった。
 次に私のは、書道について、この春「中央公論」で述べて盡さなかつたことを補った。津田さんは一時間二十分、私は一時間牛。津田さんは、何も欧米の眞似ばかりしなくともいいといふことをいひ、私は支那の眞似ばかりしてゐなくともいいといふことをいって、どちらにしても、日本人は、もつと深くじっくりと物を考へて、あまりにも軽浮な態度をつつしんでほしいといふ點で暗合したのは面白かった。講堂は小さかつたが満員で、聴衆は熱心で静粛であった。
 講演が終ると、欒屋裏へ、何人かの人たちがやって来て挨拶を述べた。その中に一人の女學生が、サインを求めたけれども二人とも手を出さなかった。すると東北大學の教養學部の教員の一人が、自分等の手で出してゐるのだといって「短歌新生」といふ雑誌を四五冊私にくれた。それを見ると毎號にわたって私の歌集を合評して、しかもまだ完結してゐないらしいので、いささか面喰った。
 その晩「河北」で、ある料亭で一席設けてくれた。その席上では津田さんが告発を受けられた頃の話に花が咲いた。
 翌十九日の朝、雨のふる中を津田さんに別れ、私は鹽竈、松島を見物に行った。私の目には松島よりも何よりも、瑞巌寺の須彌壇の上に甲胃を着て床几にかけてゐる獨眼龍将軍の木像が、いつまでも遣るのであらう。その日仙臺驛から東京に向つた。
 仙臺で青葉城のあとへ登ってゐる刻に、一人の若くてきれいな米國夫人が馬で行き過ぎた。その顔が、いつか新潟へやって来て、こちらの綜合大學の成立に力になってくれたマーチン君の奥さんによく似てゐたので、説明役の三原君にたづねると、それは私の見まちがひらしいが、マーチン君は近いうちに仙臺の大學の講師として赴任することになってゐるといふので、私の名刺に、ごくわかり易い日本文で、敬意を表して、その傳達を三原君に頼んで来た。
 それから城あとで、三原君は遥かに一方を指して、あの山の下に、原阿佐措さんが、今も達者で暮してゐること、そして今はもう年寄りめいた、落ちついた、いい歌を詠んでゐることなどを教へてくれた。
            『新潟日報』夕刊昭和二十五年三月二十八日

『会津八一全集』 中央公論社


 




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