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コーセーだから №67 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」28

               (株)コーセーOB  北原 保

数々のデマを克服
返品の商習慣も改正

人生の苦境乗り切る

 小林社長が博多の「コーセー会」に出席した時のことだ。いつものように小売店主を集めて、コーセーの堅実経営を2時間ばかり話した。すると、会場から「質問」という声がかかった。その店主は「昨日、ある有力メーカーの会合で、コーセーが銀行管理になっているという話が出たが、ほんとうか」というのだった。
 『寝耳に水』とはこのこと、小林社長はおどろいて、「とんでもない」と否定した。そして再びコーセーの発展や現状を一時間説明して――「もしそのようなことがあれば、銀行で調べればすぐわかること、調べに行って下さい」と答えた。
 東京に帰った社長は、いつもの床屋に行くと「コーセーさんは気の毒ですね」なんていうので、理由を聞いてみると、「王子の経理士会でコーセーが銀行管理になったというウワサ」だという。実は東京でも他社のセールスたちが、博多で聞いたデマと同じニュースを流していたのだ。デマの早さにおどろいた小林社長は早速デマの発生を調べたところ、銀行から定年の社員を採用したことからの誤解であったことがわかった。小林社長は、コーセーは若い社員ばかりの会社、かねがね年配の経験ある社員を入社させたいと考えていた。ちょうど、富士銀行が主要取り引き銀行で金子頭取が長男の媒酌人でもあったので富士銀行の人事部長に頼んで、優秀な定年退職者を社長秘書に迎えた。同時に取り引き銀行の三菱銀行にも頼んで本店の庶務課長もつとめたことのある定年の銀行マンを管理部長の椅子につかせた。ところが、二人の入社が昭和38年(1963年)末で不況の前夜、管理部長になった銀行マンは挨拶状をもとの三菱銀行の仲間たちに送った。これが誤解のモトになった。「三菱銀行の管理になった」と早合点したというのだ。
 「ちょうど不況の中で銀行管理になる会社が多かったからコーセーもそうだと思われちゃったんですね」
 管理部長は責任を感じてすぐに三菱銀行の本店に話しましょうといったが、小林社長は「いちいちそんなことをとりあげたらおかしい。それより一品でも多く小売店に品物を販売することである。デマは黙殺し、そして吹き飛ばせ」と指示した。
 しかし悪いことは重なるものだ。「クラウンストア会議」と名称を変えたコーセー会全国大会で、小林社長は「コーセーは3年後には150億円の売り上げにする、世界11位のメーカーになる」とぶった。この方針をうけついだコーセーの企画室では積極政策の現れとして、従来からの商品交換の規定をなくして、これら返品の記録をとる規定に改正した。
 小林社長は2~3ヵ月たって、バカに返品が多くなっているのに気付いた。そこで販売関係者を呼んで事情を聞いてあわてた。早速、返品は中止、やむを得ないものは交換する従来の方針とするよう営業所に指令した。
 「私は40年前から、化粧品の返品という悪い商習慣を改正するためにいろいろな販売政策をうってきた。アルビオンだってはじめから返品なしという方針をとってきたのもそのためだったんです。が、ちょっとした返品と交換品との考え方の違いのため、返品が多くなったんです」
 社長はそのころ妻きんさんに先立たれて精神的などん底の中にあった。
 「いま考えると、不況の中で、銀行管理というデマが予想外に広がりそして妻の死とその時の苦境をよくはね返しましたね。経営というものは、もう絶対に大丈夫だということはないと思いますね。トップに体験がなくて、気がつかないと、昨日までよかった会社が倒産旋風にまきこまれる。まあ、含み資産が相当ありましたので平気でしたけどね」
 堅実経営をモットーにする小林社長は、昭和39年(1964年)から昭和40年(1965年)の不況旋風の中で、自信をもって一つ一つ問題を解決していった。
                                          (日本工業新聞 昭和44年11月12日付)

*1964年から1965年の不況――1964年の東京オリンピック終了後から1965年(いざなぎ景気が始まる11月前まで)にかけての不況。大手証券各社が軒並み赤字に陥ったことから証券不況、重工業の不振から構造不況、昭和40年不況などといわれた。この不況後は一転して57ヶ月続くいざなぎ景気となる。

67-1964年全国クラウン会議.jpg
苦境の中で開催された有力販売店をあつめて開催された全国大会(1964年)


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