SSブログ

梟翁夜話 №72 [雑木林の四季]

「あの山の向ふに草原がある」

                    翻訳家  島村泰治

通訳や翻訳が生業だと話したら、ある人からこんなことを聞いた。ことある毎に思ひ出す話しだからご披露しやう。

「同時通訳で鳴らした人の話がいつまでも忘れられないのです。小生にはとても務まらぬ商売だから、通訳と云ふ仕事の話しそのものが忘れられないんじゃなく、その話の流れにその人がふっと吐いた言葉が印象的で忘れられないのですよ。それも、その話がほかならぬ小生が、ある時まとまった金を借りて、返し切るまでのストレス感を背負ってゐた時だったから、なおのこと忘れられないのです。

「小生の借金は不測の事態をしのぐためで、心理的にも備へがない状況で、その分ストレスがきつかったのですが、完済まで常に首を締められるやうな感覚があリました。その人の話しをもしその時期に聞いていたら、さぞ気持ちが安まっただらうなと、いまさらに思ひ出すのです。」

「その人はこう云ふことを言ってました:

『その日の同時通訳は内容が高度かつ複雜で、事前の準備も万全とはいえない感があったことは確かなんだ。できれば、ほかの奴に、と思ったほどだった。さういかないから、覚悟してブースに入った。受け持ちは交代で十分ずつ。始まった。案の定きつい。一秒、一秒が緊張の連続だ。何分ごろか、首筋がぐっと硬くなった時に私は自分に言ひ聞かせた。いいか、こんな時間が永遠に続くわけじゃないんだ。この時間が過ぎれば、パラダイスが待ってゐる。そよ風が吹く草原が待ってゐる・・・。』

『馬鹿な話と笑わないでくれたまえ。本気にさう思ったんだ。驚くなかれ、その瞬間、私の舌が滑らかに動くやうになったんだ。以後、私はここぞと云ふ時には、きっと草原を思ひだすのです。』

「さう云ふ話しだった。同時通訳と借金は異質かも知れない。ですが、ここに何か通じるものがあると思ふのです。私も、借金で首を締められながら草原を描く術を知ってゐたら、あの借金ももっと平常心で返し切れたのかも知れない、といまさらに思ふのですよ。」

話を聞いて、同業として通訳の苦労をまざまざと思ひ出した。密度の高い外交畑のやりとりを同時に通弁するストレスは、ブースにも増して神経を痛める。草原こそ思はなかったが、この仕事も一時間ほどで終わるのだ、と己を宥め賺(すか)す試みで何とかやり過ごして来た思ひ出は、今は妙に懐しい。

いまは巷を離れ、草原ならぬ野畑を眺めて暮らす日々にはストレスは毛ほどもない。なければないで、神経をすり減らすほどの心理的な圧迫感が欲しいとすら思ふのは、通訳などと云ふ因果な仕事を経験したのものの戯言だらうか。

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。