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日本の原風景を読む №9 [文化としての「環境日本学」]

序 まほろばの里で イザベラバードの奥州路(コラム)

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛 

黒沢峠

 新潟から山形へ、バードは阿賀野川伝いに越後街道の一三もの険しい峠を徒歩と馬で越えた。
 「雨混じりの風が、窓の紙の破れ目から吹き込む中で、煙にむせ返りながら、指先を囲炉裏で温めているのは、わびしいものです」(『日本紀行』)。黒沢峠(山形県小国町)の険しさにもまして、集落の人々の惨めな暮らしぶりにバードはたちすくんだ。
 明治十七年、新道の新潟-山形線が開通、黒沢峠道は廃道となった。
 良寛和尚、直江兼続、西郷吉之助、そしてイザベラ・バード、原敬。黒沢峠を越えた人たちの足跡を思い、その記憶を後世に伝えようと昭和五十五年、集落の二一戸がこぞって「黒沢峠敷石道保存会」を結成、旧道の発掘、復元作業を始めた。
 「峠を越えたバードの達成感はどれほどであったか。その勇気を思い、集落が力をあわせて歴史の記憶を蘇らせようと自発的に作業を始めました」。黒沢峠敷石道保存会の保科一三会長は顧みる。
 共感は広がり、二千人を超す高校生やボランティアが加わる。幅二メートルはどの胸つき八丁路はところによって二メートルもの土砂に埋もれていた。ブナの森を縫い辛うじて旧道の痕跡が残っていた。五年半の作業で四〇センチ四方ほどの砂岩三六〇〇枚を敷き詰めた峠道が現れた。「作業を終えてバードの旅路の達成感を思いました。この土地に生きる力を若い人たちに伝えたかった」。保科さんの言葉に力がこもる。「峠に立てば一三六年の時間を超えて、バードの苦労と感動を私たちも分かち合うことが出来ます」。
 黒沢峠路は文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた越後街道にあって、「これほど美しく特徴ある街道は『歴史の道百選』の中でも唯一のもの」と高く評価されている。
 十月恒例の「黒沢峠祭り」は二八回を数えた。lR米坂線小国駅から三・六キロ、峠まで二時間半のトレッキングに東京、千葉、京都、神戸からも常連が加わる。


高安犬と犬の宮

 椿勉は銃を撃ち損じた。瞬間、熊の剛腕が顔面に。顔は崩され、眼球がゆがんだ。おびただしく血を流し、椿は倒れた。意識が切れかかった時、猟犬が家の者と現れ、椿は命拾いした。高畠町最後のマタギ(猟師)椿は今七十八歳、昨冬、自慢のライフル銃を手放した。森の奥に〝遊び小屋〟を作り、自適の日々を送っている。
 「熊がちょくちょくおれの小屋に来て、山神サマの方さ、ずぅーと下がってえぐなヨ。ぶっかることも、あっこでナ。ンでも、おだがえ、わがってえっから何もしね。会えだくなっと、来んナだ、へ」(熊が時々、私の小屋の脇を通って神社の方へ降りて行く。顔を合わせてすれ違うこともあるけどそれまでよ。両方とも何もしない。お互いによく分かっているから何もしない。会いたくなると来るんだ。」
 椿は作家戸川幸夫が直木賞を受賞した『高安犬』のモデル、四〇頭を仕留めた熊内の名人吉蔵こと椿義雄の孫である。
 椿が暮らす高安の集落は、幻の日本犬・高安犬のふる里だ。家人に急を知らせ椿の命を救った猟犬は、既に姿を消していた高安犬の血筋を引く勇敢な日本犬だった。「犬張子を思わせるガッチリした体つきの、戦闘的な狩猟犬」(『高安犬物語』)は犬の宮に祀られ、参拝者が絶えない。
 杉の巨木が天を圧する岩石の参道を辿ると、山の中腹に権現造りの拝殿と本殿が鎮座している。高安犬の伝説に絡む「犬の宮」南無六道能化地蔵尊である。
 愛犬の願い事や冥福を祈る写真、メッセージが、拝殿にぎっしり供されている。近くには、これまた住民を救った伝説の猫をまつる「猫の宮」が。現金代わりに使える商品券の「ワン券」「ニャン券」も町内で流通する。
 七月に「全国ペット供養祭」が村の鎮守である犬の宮で行われる。
 大宮別当林照院(天台宗)と猫官別当清松院(曹洞宗)の住職が読経、二井宿語り部の会会員が昔話を語る。


ばあちゃんの野菜

  「ばあちゃーん」。高畠町立和田小学校の二階から子どもたちが手を振って叫んだ。浜田広介の童話「黄金の稲束」の石像が見守る校門の辺りを、自転車の荷台にキャベツと人参を積んで平とよさんがゆっくり近づいて来る。
 今年で四九年間、平さんは自分で作った野菜を和田小に届け続けている。自給野菜組合には今、八人が加わる。「とよさんが一生懸命育ててくれた野菜はとても美味しいです。おかげで私は野菜が大好きになりました」(和田小・平百恵)。
 子どもたちから山ほど届く礼状を「何十年もしまってあるので、字が薄れてきて」。時には返事を届けることも。
 初夏、月曜の給食メニューは白ごまとバターで味つけした、かって米沢藩の救慌食だったウコギ炊き込みご飯。垣根などに植えられた野草ウコギの小さな新芽を一つずつ摘みとる。
 組合のまとめ役、平ふみゑさんは五十歳のとき、母まささんから引き継いだ。「子どもたちに美味しい野菜を食べさせたい、と畑で汗を流していた母の姿を思ってのことです。」
 組合が発足をした当時九百人を数えていた子どもたちが、一七〇人に減ったのが気がかりだ。ともあれ、自給野菜組合の試みは街全域の小中学校に広がりつつある。学校農園と合わせ、給食材料の自給率が五〇パーセントに達した小学校もある。
 高橋聡校長が、この三月に転任した教員が洩らした言葉を明かした。「私の価値観が変わりました。野菜を届けるおばあちゃんたちは、生きていくのに必要なことを全て自力で成し遂げます。それこそ真に素晴らしい人間と思うようになりました」。


『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店

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