SSブログ

いつか空が晴れる №85 [雑木林の四季]

     いつか空が晴れる
         -Heres That Rainy Day-
                    澁澤京子

 ビル・エヴァンスのアルバム、『Alone』に入っている曲は寂しい感じのものが多い。
明るい曲のはずの「On a Clear Day(晴れた日に永遠が見える)」でさえ、まるで曇っている日のよう。
特に、一曲目の「Heres That Rainy Day(こんなにも雨の日)」はしんみりして、切ない。

昔、世田谷に住んでいた頃、小さい子供を寝かしつけて一人でお茶を飲んでいたとき、突然玄関のブザーが鳴った。一日中、小雨のしとしとと降る梅雨の夜、10時ごろだったろうか。こんな時間に誰?と思いながら玄関を開けると、雨に濡れそぼった色白で小太りの中年の男が、傘もささずに立っていた。
「あのう、おたくのガレージに僕のケイちゃんがいるみたいなんですけど・・」
「・・・・ケイちゃんって誰ですか?」
「僕のネコなんです・・ずっと探していたんです・・すみません、ガレージの灯りをつけていただけますか?」
男が今にも泣きそうな切迫した声を出しているので、私はあわててガレージの灯りをつけた。
ケイちゃん・・ケイちゃん・・という小さな声がガレージの奥から聞こえていたが、しばらくしてから再び玄関のブザーが鳴った。

玄関を開けると、男は雨に濡れたまま猫をしっかり抱きしめて立っていた。
「ありがとうございます・・ケイちゃん、ガレージの奥にいました、ああ、よかった・・なんてお礼申し上げたらいいか・・本当によかった・・・」
男はすでに半泣きになっている。
「まあ、よかったですね。あの・・よかったら、傘をお持ちになりませんか?」
「いえ、近くだから大丈夫です」
男は傘もささずに猫を抱きしめたまま、何度もこちらを振り返りお辞儀して去っていった。

猫と再会した男の感動とは反対に、猫は少しもうれしくなさそうな憮然とした顔で男の腕に抱かれていた。
まるで、嫌がる恋人を無理に連れ戻しにきたようではないか。
犬の場合は飼い主とはぐれてしまうと、飼い主以上に不安になるものだけど、猫の場合は飼い主が一方的に不安になるだけで、猫のほうは全然平気なのね、と思ったのである。

同級生のK子がイタリアから一緒に連れてきた猫二匹と暮らしている。
私もK子もお互いにいろいろと事情があって今は独身。お料理の抜群に上手なK子に時々ご馳走になる。
「・・私は猫がいればいいっていう感じでもないのよ・・人間が好きなのよ」
「・・それはそうよ、猫は男の人の代わりになんかならないわ・・。」と、K子と私の侘しい会話。
お雛様を早く飾るとお嫁にいけるっていうわよ、というので今年の三月には二人でお雛様とぼんぼりを飾った。飾り終わると、灯ったぼんぼりの横に猫がやってきて二匹でちゃっかり坐ってポーズをとるのであった。

K子の家のすぐ近くに小さな花屋があって、そこでよくお花を買って持っていく。この間は白に紫の花芯のチューリップを持っていった。食卓に飾ると、猫が食卓に上ってチューリップの横に坐ってポーズをとる。チューリップのにおいをそっと嗅いでから(まあ、素敵なお花ね!)という感じでこちらを見る。最初は憶病でなかなか近づいてこなかった黒い猫が特に花が好きで、花を買っていかなかったときは、私の足元に来て(アラ、今日は、お花はどうなさったのかしら?)という感じで首をかしげてこちらを見あげる。私はひそかにK子の二匹の雌猫を(ミラノのマダム)と呼んでいる。この間、K子二人で、ダイアン・キートンとモーガン・フリーマンのほのぼのとした老夫婦のコメディ映画をゲラゲラと泣き笑いしながら見ていたときも、二匹はひっそりと私の足元に寄ってくるのであった。
楽しいことと美しいもの、そしておいしいものには目がない、優雅で怠惰な二匹のマダム猫。

「やっと静かになったわ。」
「ご主人とお友達。お二人とも泣いたりゲラゲラ笑ったり・・」
「・・なぜ人間はあたくしたちみたいに優雅になれないのかしら?」
「人間って不自由なものね・・人間の社会ってなんだかぞっとしない?」
「おお、嫌だ・・あたくしは猫に生まれたことをいつも神様に感謝してますの・・」
「・・たとえば、静かな満月の夜ね、そんな夜は恋でもしたくなるものでしょう?」
「・・そうね、恋っていいものだわ・・恋をすると自然に沈黙している時間が多くなるものだわ・・」
「あたくしたち、イタリアの猫ですもの、生きるってお祭りみたいなもの。今までだって、たくさん恋をしてきた・・」
「・・恋をするたびに、あたくしはいつも黙って月を眺めたものでした。」
「・・そして夜空を見上げては、月の優しさが切なくて涙を流したものでした・・」
「まあ、あなたったらもう泣いているの?」
(涙を前足でぬぐいながら)「そう、恋はできるだけ、たくさんしたほうがいいのよ・・たとえどんなに苦しくとも辛くても。ねえ、こんな恋のことわざをご存じ?踊る阿呆に見る阿呆、どうせ阿呆なら踊らニャソンソン・・」
やがて夜中になって、窓から差し込む月の光の下で二匹の猫は前足をとりあって楽しそうにいつまでも踊るのであった。

窓の外はまだ雨が降っている。
今度K子の家に行くときはフェリーニの『甘い生活』のDVDを持っていこう。二匹の猫にはどんなお花を持っていったら喜ぶだろうか?


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。