雑記帳2020-6-1 [代表・玲子の雑記帳]
2020-6-1
◆多磨霊園は、東京都府中市と小金井市をまたいだ場所にある、日本初の都立の公園墓地です。
面積は都立霊園としては最大の128万237平方メートルで、東京ドーム27個分に相当します。
◆多磨霊園は、東京都府中市と小金井市をまたいだ場所にある、日本初の都立の公園墓地です。
面積は都立霊園としては最大の128万237平方メートルで、東京ドーム27個分に相当します。
1900年(明治33年)頃の東京市には、元々5つの公営墓地(青山墓地・谷中墓地・染井墓地・雑司ヶ谷墓地・亀戸墓地)がありました。東京市の市街地化と人口増加に伴って墓地不足となり、東京市外での墓地の造営が必要になったのです。
そんな背景もあって、関東大震災直前の1923年(大正12年)に北多摩郡多磨村に開園しました。当初は多磨墓地といっていましたが、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称されました。
長い歴史を持ち緑の多い公園墓地であり、著名人の墓地もたくさんあります。
長い歴史を持ち緑の多い公園墓地であり、著名人の墓地もたくさんあります。
東京市街から離れていたこともあり、開園後しばらくは使用する者はあまり多くありませんでした。そこへ、1934年(昭和9年)に東郷平八郎が名誉霊域に埋葬されたことで多磨墓地の名前が広まり、これ以降利用者が大幅に増えて、現在のような人気の霊園の一つになったといいます。
自粛要請が解除されない間、出歩くこともできない中で、3密にもならない所をと思い立ち、多摩霊園に出かけました。
首都圏にもまもなく緊急事態の解除宣言が出る直前のことでした。
首都圏にもまもなく緊急事態の解除宣言が出る直前のことでした。
みたま堂
園内は26区にわけられて、個々の墓所にはすべて番号がついています。が、それが番号順に並んでいないところが難点で、めあての墓を探し当てるのは容易ではありません。
管理等でもらったマップを広げると、著名人だけでも150人を越えていました。
その中でまず選んだのが多摩にゆかりのある日本画家、川合玉堂です。管理棟にもちかく、比較的見つけやすかったのです。
その中でまず選んだのが多摩にゆかりのある日本画家、川合玉堂です。管理棟にもちかく、比較的見つけやすかったのです。
玉堂は戦争中疎開した西多摩群三田村(現在の青梅市御岳)に戦後も住み続け、多摩川の自然を描いた墨絵をたくさん残しています。死後、玉堂の愛した御岳渓谷に、アトリエを移した「玉堂美術館」が建ちました。その玉堂の墓があるのは青梅ではなく、多摩霊園なのでした。戦前、戦後を通じて、日本画壇の重鎮だった玉堂らしく、広い墓地の中で、奥中央に玉堂の墓石が、その右に川合家の墓石がありました。
2区1種13側8番
最初に画家の墓を選んだのだからと、次に向かったのは、大阪万博の太陽の塔や「芸術は爆発だ」の名セリフを残した岡本太郎の墓です。16区には一平、かの子、太郎、の岡本ファミリーの墓所があるのです。
太陽の塔
この家族は夫婦、親子が一個の独立した人格として対等な関係で結ばれている、当時としてはたぐい稀な家族形態でした。一方で全く異質な芸術家の共同生活には「想像もできない絶望的な矛盾」もあったと太郎自身が語っています。一家と親交の深かった川端康成はかれらのことを「聖家族」と呼びました。川合家と同様、こちらも広々とした墓所内に太郎の作品を墓石にしたユニークなつくりで、遠目にも、さすがは岡本太郎、とわかるお墓でした。
太郎の墓は自身の作品「午後の日」を、死後、パートナーのの敏子さんが選んだのだそうです。
向かい合うように立つ一平の墓は同じく太郎の作品「顔」でした。
一平の墓に並んで立つかの子の墓は彼女が仏教の研究をしていたということから、観音像になったそうです。墓の地番は16区1種17側3番。
太郎の墓は自身の作品「午後の日」を、死後、パートナーのの敏子さんが選んだのだそうです。
向かい合うように立つ一平の墓は同じく太郎の作品「顔」でした。
一平の墓に並んで立つかの子の墓は彼女が仏教の研究をしていたということから、観音像になったそうです。墓の地番は16区1種17側3番。
太郎の墓「午後の日」
一平の墓「顔」
かの子の墓「観音像」
画家のお墓をもうひとつ、と欲張ったのが、大正時代に活躍した岸田劉生の墓です。38歳で夭折した画家の代表作「道路と土手と塀(切通之写生」は重要文化財、愛娘をモデルにした一連の「麗子像」は43点にのぼりました。今『知の木々舎』に連載中の『過激な隠遁~高島野十郎評伝』にも、野十郎が岸田劉生を意識していた場面がでてきます。
道路と土手と塀
麗子像
12区1種11側11番という墓の地番をさがすのは意外に難しく、たどりつくのに相当時間がかかってしまいました。そして、漸く探し当てたのは、個人の名前ではない、岸田家の墓でした。
「パリに行った暁には、フランスの画家に絵を教えてやる」と豪語したエピソードを持つ天才画家の墓は、さほど広くはない墓所に黒松が一本、大きく枝をのばしていて、岸田家の墓石は控えめな小さなものでした。
なにしろ、句路をバスが走る、広大な霊園です。慣れない園内マップを片手に方角を失ってしまう。
霊園内には画家がもう一人、梅原龍三郎の墓があるのですが、力尽きてこの日は岸田劉生まで。次回につづきます。
「パリに行った暁には、フランスの画家に絵を教えてやる」と豪語したエピソードを持つ天才画家の墓は、さほど広くはない墓所に黒松が一本、大きく枝をのばしていて、岸田家の墓石は控えめな小さなものでした。
岸田家の墓(12区1種11側11番)
なにしろ、句路をバスが走る、広大な霊園です。慣れない園内マップを片手に方角を失ってしまう。
霊園内には画家がもう一人、梅原龍三郎の墓があるのですが、力尽きてこの日は岸田劉生まで。次回につづきます。
◆緊急事態宣言が解除された5月最後の週、栄緑道は卯の花が満開をすぎて、紫陽花が咲き始めました。
◆九州では梅雨入りしたとの知らせでがありました。日本列島は本格的な雨の季節です。一茶のくらしをのぞきました。五月雨は梅雨なんですね。
五月雨や天水桶のかきつばた 七番日記 政1
蕗の葉をたばこに吹や五月雨 八番日記 政4
塀合に卯の花降し流けり 寛政句帖 寛5
今の世や入梅雪のだまし雨 文政句帖 政5
入梅晴や二軒並んで煤はらひ 八番日記 政2
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2020-05-29 19:57
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