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批判的に読み解く歎異抄 №5 [心の小径]

1、「悪人正機」(第三条)の問題

             立川市光西寺住職  寿台順誠

(2)「悪人」の意味 1

 次に「悪人」という言葉の意味が問題です。「悪人正機」という時の「悪人」には三つの意味が重なっていると私は思っています。一つは「宗教的な意味」です。これはよく「悪人の自覚」って言い方がされてきました。特に大谷派の近代教学では好んでこの言葉が使われたと思いますが、元々の信仰体系の言葉で言えば「機の深信」と言われるものです。「機の深信」っていうのは救済対象となる人の問題です。「正機」の「機」とは人のことですけど、「悪人正機」は最近流行の言葉で言うと「悪人ファースト」ってことです。要人が最初に救われるべき存在だってことですね。それで、「機」という人間についての認識を「機の深信」として親鸞は『観経疏』「散善義」にある善導の二種探心を『教行信証』「信巻」に引用しています。

 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうこう)より巳来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。(本願寺派『浄土真宗聖典』218ページ、大谷派『真宗聖典』215ページ)

 わが身は救われ難い「罪悪生死の凡夫」だと、そういうのが人間だということですね。自分自身が救われ難い身だという「宗教的な意味」における信仰的自覚を意味するだけだったら、『歎異抄』は何も問題はありません。ただそこに、「悪人」という言葉を使ったことによって、あと二つの意味が重なってきます。
 その一つが「倫理道徳的な意味」です。単に「悪人の自覚」ではなくて、まあ場合によっては、刑法に抵触する犯罪まで含む意味での「悪」が含まれてきます。極端な話、人殺しも放火も含めてということになりますが、そういうことまで「悪人」には含まれてきます。ここで話がややこしくなります。「悪人こそ救われる」というのが、「恵の自覚をもった人だけが救われる」という意味であれば問題ないと思うのですけど、倫理道徳的な意味も含まれるとなると、「人殺しまで救われる」という話になってすごくややこしいことになるわけです。
 そして、さらにややこしくなるのは、そこに「悪人」のもう一つの意味、「社会的意味」が重なってくることです。こういう議論は主に歴史家がしてきた議論ですけど、親鸞が一緒に生きたのはどんな人たちだったのかということです。これまで「猟漁師」「商人」「農民」「武士」「被差別民」等が挙げられてきました。『唯信鈔文意』には「屠沽(とこ)の下類」という言葉が出てきます(本願寺派「浄土真宗聖典』707-708ページ、大谷派『真宗聖典』552-553ページ)。「屠」と言うのは屠殺の「屠」ですね。「屠」は生き物を殺し屠る者、「沽」は、物を売り買いする商売ということです。かつて商売人は今よりも価値の低い者として蔑まれていました。が、このような「下類」、即ち「いし・かわら・つぶて」の如き者であっても念仏を称えることによって「こがね」(黄金)に変えなさしめられる、と言っております。そういうことからいって、漁師とか商人とかが「悪人」の中に入るかもしれません。が、さらにそれに加え農民もこの「悪人」には入るかもしれません。笠原一男の『親鸞と東国農民』(山川出版社、1957年)という本がありましたが、これも親鸞が誰と一緒に生きたかを示すものではないでしょうか。それからまた、武士というのは職業として人を殺さなきゃいけません。例えば熊谷次郎直実はそれが嫌になって法然門下に入ったわけですから、彼には「悪人の自覚」があったということですね。(この項つづく)
名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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