SSブログ

いつか空が晴れる №83 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
    -トロイメライ ー
             澁澤京子
 
 You tubeで観ることができるホロヴィッツのモスクワ公演の「トロイメライ」は、ほとんど指を動かしてないように見えるホロヴィッツのピアノ演奏も素晴らしいけど、それを会場で聴いている人たちの表情も素晴らしい。
目を瞑ったまま動かないで聴く人、あふれる涙を抑えないまま聴く人、シューマンのトロイメライを聴いて脳裏に浮かぶのは子供の時の風景だろうか、あるいは亡くなった母親のことだろうか、昔の恋人のことだろうか、人によって様々な風景があるだろう。ホロヴィッツのピアノは何よりも、美がはかなくてもろいものだということを教えてくれる。

ホロヴィッツという人は中年期に、突然コンサートを中断する失意の何年かを経てから、飛躍的な演奏をするようになったといわれている。優れた芸術家はおそらく自分の壁にぶつかって、そしてその壁を乗り越えようとするときに、真の美が輝いてくるのではないだろうか。それが私生活上の問題であれ、個人の限界であれ、(壁を乗り越える)のは、芸術家にとっての宿命のようなものだと思う。バンクシーのようなアーティストが(壁)にこだわるのもある意味象徴的かもしれない。(そのうちバンクシーは、自身のスタイルをも否定しないといけなくなってくるのだろう)
自分に正直であればあるほど自身の(壁)の高さに敏感に気付くのだろう。

・・・ふたつのものが、第三のものなしに、ただふたつだけで見事に結び合わされることはありません。その真ん中に、両者に一性をもたらすつながりが必要です。そのつながりの中で最も見事なものはといえば、自らが結び合わせる両項をそれ自身と完全に一にするものです。さらにこうした一性を本質的に最も見事に体現しえているのが幾何学的な比例です。・・・『ティマイオス』プラトン

つまり、(神―人)との関係のつながりにも、(人―人)との関係にも「比例の一致」の働きがあるというのだ。そしてその比例による一致は、ある時、ふいに向こうから訪れてピタッとくる直観のようなものであって、直観によるつながりは、何か音楽の流れと調和に似ているような気がする。もしかしたら、人と人との相性にも比例の一致が働くのかもしれない。

数学のごまかしや虚栄のないところは、自然に似ている。何事も自然なほど美しく見えることはないし、また自然であることほど難しいこともない。
ホロヴィッツやビル・エヴァンスのピアノにはほとんどテクニックを感じさせない、つまり演奏者の姿がまったく消えているようなところがあって、その自然な感じがまさに達人の領域なのは、二人とも自分をごまかさないからだ。

以前、映画『奇跡がくれた数式』を観た。インドの天才数学者ラマヌジャンの話。数学のことはまったくわからないけど、インドに生まれたラマヌジャンは、正式な数学教育を受けていない。やがてラマヌジャンが独学で見つけた公式はケンブリッジ大学の教授の目にとまり、彼はケンブリッジに招かれる。彼の見つけた公式は夢の中に出てくる女神がくれたものなのだ・・・・(映画では瞑想中に女神がやってくる)
音楽や数学の才能のある人は、きっとプラトンのいう(想起)、イデアの記憶を普通の人よりも鮮明に持って生まれてきたのかもしれない。

・・・もし私があなた(神)を記憶していないとするならば、どうしていまあなたを見出すことができるのでしょう。・・『告白Ⅱ』17章アウグスティヌス・山田晶訳

アウグスティヌスは、「記憶」についての美しい文章の中で、神も真理も人の記憶の中に埋没していることを書いている。私たちの心が曇っていて、それに気が付かないだけなのだ・・
アウグスティヌスは神の存在を論理的に証明しただけなのではなく、神秘的な経験によって、無限(永遠の)との一致を体験したのだ、無限である神と、有限でしかない人間の一致を。

アナクシマンドロスは「無限定なもの」を万物の原理とした。
・・・諸存在にとって生成がそれからのものであるそのものへと消滅もまた必然によってなされる。なぜならそれは時の秩序に従って、また相互に不正の償いをするからである・・『初期ギリシャ自然哲学者断片集』
自然の無限が万物の原理というアナクシマンドロスにとって、プラトンのイデアやアリストテレスの究極因も、キリスト教の一者のように(一に帰す)といった宗教的な発想もなく、不死の魂も因果もない。すべての個はその固有の原理で生じた必然なのであって、永遠に生成して運動する「無限の自然」と考えた。「不正の償い」は人間的な倫理ではなく、自然の摂理だろう。
・・無限なるものから天が分離され、無限に存在する全世界が分離された・・『初期ギリシャ自然哲学者断片集』
アナクシマンドロスは、大地(地球)は球体で宇宙に浮かんでいるものと考え、月は太陽によって輝いていると考えた、また大地震を予知して人々を安全な場所に逃がしたらしい。かつて人間は海の中にいたと考えたアナクシマンドロスはけっして魚を食べなかったという。アナクシマンドロスにとって偉大なのは自然とその無限だったのだ。自然そのものが倫理だったのである。アリストテレスはアナクシマンドロスについてこう語っている。
・・だがとりわけ重要で、すべての人に共通の難問となっているのは次のことである。すなわちそれは、思惟において汲みつくせないがゆえに、数とか数学的な大きさとか天界の外が無限であるように思われることである。天界の外が無限であるのなら、物体も無限であり、そして宇宙も無限であると思われるのである・・『初期ギリシャ自然哲学者断片集』

魂の不死と数学をギリシャに持ち込んだのはピタゴラスで、アナクシマンドロスの(自然の無限)はピタゴラスにおいては(数)となり、それはプラトンのイデア~キリスト教の神に引き継がれていく。

自然を抽象したものが数学で、人にはそうした抽象能力が備わっているのはまさに奇跡のようなものだけど、無限を持ち込むとアキレスと亀のパラドックスになって、抽象と現実が矛盾してしまうことはゼノンが指摘した。

そうすると改めて(無限)とはいったい何だろう?と考えてしまうのである。世界はなんという素晴らしい謎と神秘に満ちているのだろうか。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。