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日本の原風景を読む №1 [文化としての「環境日本学」]

 はじめに ー 今、なぜ原風景か 1

  早稲田大学余教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

ダ・ライ・ラマへへのインタビュー

 毎日新聞社から早稲田大学に転じて七年たった二〇〇五年二月、客員編集委員でもある私は毎日新聞社の依頼で、チベット仏教の「活き仏ダライ‥ラマ」十四世法王へインタビューを試みた。
 ニューデリーから列車で一〇時間、カシミールに近い西北インドの街パタンコットへ。万年雪のヒマラヤ山脈ダウラグル山地へ向け、信号機が一つもない道を三時間飛ばすと、標高五〇〇〇メートル級の山脈が壁となって覆いかぶさってきた。車の登攀力が限界に達した谷間の急斜面に、宗教集落ダラムサラがへばりついている。

 一九五〇年、中国政府に弾圧されチベット・ラサのポタラ宮殿を脱出したチベット仏教の「活き仏」であり、亡命チベット政府の首班(当時)でもあるダライ・ラマ十四世法王の活動拠点である。
 インタビューに先だって、亡命政府からダラムサラの要所を訪ね、チベット仏教の思想と実践を学ぶように求められていた。私は五日間ダラムサラに滞在し、二〇年ぶりという大雪に雪崩が頻発するこの地の風景と息詰まる思いで対した。
 寒さで眠れない早暁、闇の奥から怒涛が押し寄せるかのような音響がホテルの頑丈な石壁を越して伝わってきた。
 音源を確かめようと、崖っぷちの凍てついた雪道をたどると、岩山の頂にあるダライ・ラマ宮殿の寺院の境内に到った。
 袈裟をまとってはいるものの、上半身裸に近い二百人ほどの僧侶たちが、吹抜けの大広間で星がまたたくヒマラヤの雪の稜線に向かい、腹の底から発する声量で読経に熱中していた。同時刻にダライ・ラマは独り宮殿で沈思黙考の時を過ごすという。
 祈る僧侶たちとダライ・ラマ師によって共有されている、夜明けのヒマラヤの荘厳極まりない風景に、私は深い感動を覚えた。内なる潜在意識が動いた、というべきか。
 チベット人たちは靴の底革をかじりながら飢えに耐え、ヒマラヤの峠を越えインド領に逃げ込んだという。万年雪を纏ったヒマラヤ山脈の厳粛な風景は、チベット仏教徒の心のよりどころ、原風景なのであろう。

ダラムサラの聖なる山.jpg
ダラムサラの聖なる山
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早朝のダライ・ラマ宮殿で祈る僧侶たち

心のふるさととしての原風景

 本書は『毎日新聞』東京本社発行の朝刊に連載された「新日本の風景」(二〇〇七年八月~二〇一七年三月)に基づき、構成を大幅に変えて執筆した。その直接の動機はグラムサラでの体験に根ざしている。人心がどこへ向かおうとしているのか。航図の無い漂流に陥って久しい日本と日本人の心の基層を、場所性(topos)が濃厚な「原風景」に表現されている土地から探求し、表現できないか。本書は十年間にわたったキャンペーンの連載を大幅修正し、書き下ろしを加えたものである。
 連載第一回目を、秋田県羽後町に伝わる西馬音内の盆踊りの風景から始めた。
 約七百年の間踊り継がれてきた、死者と生者が年に一度再会する日本の盆踊りの原風景である。
 五穀豊穣を願う女性の踊り手がまとう「端縫い衣装」は、代々家庭に所蔵されてきた綿布、端切れを四、五種類、色鮮やかに左右対称に配して縫い上げる。優美に流れるような踊りの、深くかぶった編み笠、秋田美人の白いうなじが夜の闇にひときわ鮮烈に浮かぶ。対する黒覆面の「彦三頭巾」は、あの世から里帰りした故人たちの衣装である。
 お嘩子のがんげ(甚句)は「お盆恋しや、かがり火恋し、まして踊り子なお恋し」と歌いだされる。現世の悲運を悼み、来世の幸福を願う「願生化生の踊り」が「がんげ」の語源だという。
 華やかで生気あふれる「端縫い衣装」の踊り手に、黒覆面に藍染浴衣の亡者たちが親しく交わり踊る景観は、その由来を知るとき、たとえひと時の廉の途上であれ、そこに日本の、北山北の風上と抜き差しならず結びついた原風景を見出し、共感に巻き込まれていく自分に気付いた。
 西馬音内盆踊りは、国の重要無形民俗文化財「盆踊りの部」の第二号に選ばれている。毎年八月十六日から十八日まで開催される盆踊りには一五万人ほどが訪れる。

西馬音内盆踊り.jpg
               西馬音内の盆踊り
                (写真はいずれも佐藤允男さん撮影)

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店

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