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雑記帳2020-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-5-1
◆立川にゆかりの詩人や歌人の作品を探して、14基あるという「詩歌の道」をたどってみました。崖線に添って立川の南部を横断するような道筋は、さながら立川の観光マップをなぞるようです。

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最初の碑は昭島市との境に位置する都立農業試験場のみどりの園にありました。
高村光太郎の詩碑「葱」です。
妻の智恵子と親交のあった佐藤農業試験場長夫人から立川産の葱をおくられた光太郎が、それを謳った詩です。ゆかりのある農業試験場内に建立されました。

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葱 『立川の友達から届いた葱は 長さ二尺の白根を横へて ぐっすりアトリエに寝こんでゐる。三多摩平野をかけめぐる 風の申し子、冬の精鋭。俵を敷いた大胆不敵な葱を見ると、ちきしゃう、造形なんて影がうすいぞ。友がくれた一束の葱に 俺が感謝するのはその抽象無視だ。』

農業試験場は立川段丘の上にあります。坂道をくだった「富士見町緑地公園」には、崖線から出る湧水の池があり、クレソンが自生しています。
ここには谷川水車・やまやのぎくの句を刻んだ石が置かれています。

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『春を待つ路傍の石の一つ吾』 谷川水車
『どこよりも小学校のさくらかな』 やまやのぎく

緑地の先の歴史民俗資料館入り口にあるのは筑水(鈴木貞治)の句碑です。
緊急事態宣言をうけ、資料館も休館のため、中には入れず、門のそとからの撮影になりました。

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  『麦負うて道一ぱいに揺り来る』 筑水

歴民資料館から道なりに進んで残堀川沿いの「富士見第二公園」を探しました。「青い夜道の詩人」と呼ばれた田中冬二の詩碑があるのです。
田中冬二は銀行員として働きながら、郷愁をテーマに、多作ではないものの、一貫して日本の自然や生活に根ざした詩を作りました。この詩もいかにも日常的です。旧安田銀行の立川支店長の時代に懇意の花屋さんからもらったシクラメンを詩にしました。

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シクラメンの花と 『大晦日の夜十時頃 親しくしていただいている花屋さんから シクラメンの花鉢が届けられた すばらしい花だ そのシクラメンと年越をした スヰートハートといっしょのように』

多摩川の支流の残堀川は狭山丘陵から多摩川へそそぐ一級河川です。河口に近い立川の柴崎町あたりでは春、見事な桜のトンネルができます。河原の菜の花とのコントラストが美しい。菜の花は先の花屋の三田鶴吉さんが種から育てたという話が伝わっています。
崖線の上にある古刹、普済寺の対岸に、歌碑がたっています。
作者の和田山蘭は、明治から昭和を生きた津軽出身の歌人で、若山旅人の「創作」に参加し、生涯に5万首の歌を詠みました。府立二中(現立川高校)で書道の教師をしていたのが立川との縁です。
普済寺の下の「崖下公園」にある歌の作者は立川の文化人、中野藤吾でした。

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『時雨かと戸を開けて見ればしぐれならず 星空さえて多摩川の音』 和田山蘭

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『川原にかはらなでしこ咲くもよし 空をうつして水澄むもよし』  中野藤吾

残堀川が多摩川にそそぐ河口近くには根川が流れています。
根川は現在整備されて緑道になり、緑道西端の入口の湧水口から湧き出した水が小川となってその小川に沿って遊歩道が造られています。
湧水口から出る水は実は近くの下水処理場から出た下水の高度処理水なのですが、清流魚も生息できるすぐれものです。鴨やコサギ、シラサギやアオサギなどの野鳥の観察もできる緑道には250本の桜並木、市内有数の散策路になってます。およそ1.4キロの遊歩道沿いに7つの歌碑をたどることができます。

水路に沿って歩いてみましょう。湧水口付近には若山牧水の妻、貴志子の歌碑、同じエリアの、琴帯橋近くには中村草田男の句碑があります。
牧水の子・旅人が戦後、家族とともに立川富士見町に居を構え、父の「創作」をひきついで活動しました。そのためか、牧水の家族の歌碑が詩歌の道には3つもあるのです。
草田男の句はホトトギス武蔵野探勝会の吟行で、根川を詠んだものです。

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『ひとりゐはあさこそよけれわか竹の 露ふりこぼすかぜにふかれて』若山貴志子
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『冬の水一枝の影も欺かず』  中村草田男

頭上をモノレールが通る都道149号線の下、「柴崎橋」をくぐると、浸水エリアです。 最初に木村賢一郎、少し距離をおいて柴崎体育館前には水原秋櫻子の句碑がみられます。体育館裏の菖蒲園入口には旅人の歌碑がありました。
戦前の立川は赤松の雑木林が拡がり、秋櫻子は絵画のような武蔵野の風景を詠んだ俳句をたくさん残しています。碑の句は句集『蘆刈』の中のお気に入りの句だそうです。

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『はらり はらはら 春の光を身にあびつつ たちかは曙町の むかしみちゆく』賢一郎
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『初日さす松はむさし野にのこる松』  水原秋桜子
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『霧にこもれる多摩川いつか雨となり 芽ぶく楊もぬれはじめたり』 若山旅人

橋をくぐれば霧の広場。霧の噴き出すモニュメントが人気です。水生生物・植物を保全する池にはカワセミもやってくるというので、その姿をとらえたいと、連日アマチュアカメラマンがならぶ場所です。池の傍にあるのが若山牧水の歌碑です。

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カワセミもやってくる池
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『多摩川の浅き流れに石なげて あそべば濡るるわが袂かな』若山牧水

さらに甲州街道と交差する「よしみ橋」下のトンネルをくぐると、水辺の景色は一変します。水路は昔の姿を留めた根川の風景となり、岸辺に生えている古木の桜が川面に枝を広げています。遊歩道の南側に野球場と陸上競技場のあるこの散策エリアは、東京都が計画した「武蔵野の路」是島・昭島コースの一部でもあり、サイクリングを楽しむ人(かくいう私も)も多い。詩歌の道最後の2つの歌碑がありました。

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桜の季節の根川
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『茜雲あえかに残り亡母の背の 温みなつかし武蔵野暮るる』池田澄子
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『日のいろの寒き川原にひらめける 芒のそよぎ声のごときもの』八木下禎二

根川緑道の終点は貝殻坂橋です。木製の美しい橋は、詩歌の道をしめくくるにふさわしい風景でした。
江戸日本橋と甲府(のちに下諏訪まで延長された)をつないだ甲州街道の多摩川の渡しは何度か移動され、それに伴って街道の道筋もかわったようです。
そのうち、日野の渡しが正式なルートになる以前、慶安年間(1648~1651)から貞享元年(1684)まで使われていたのが万願寺の渡しです。
台地の上をたどってきた甲州街道は、国立の青柳段丘をおりて、多摩川の河原へおりました。この段丘を下る坂を昔は貝殻坂と呼んでいました。
橋のたもとの案内板には、武蔵野風土記の柴崎村の項が引用されています。
「貝殻坂 青柳村と当村の境にあり、土中を掘れば蛤の殻夥しく出づ。土人(ところのもの)の話に古へはこの地も海なりしと伝ふ」
貝殻坂橋は万願寺の渡しよりも西に位置していますが、その坂の名をとって名づけられた橋なのです。

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