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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №32 [文芸美術の森]

                          シリーズ≪琳派の魅力≫

        美術ナリスト  斎藤陽一

            第32回:  鈴木其一「朝顔図屏風」 その1
            (19世紀中頃。六曲一双。各182.9×396.3cm。
                  ニューヨーク・メトロポリタン美術館)

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≪うごめく生命体≫

 私淑する先達・尾形光琳(1658~1716)の画業を、100年後の江戸で顕彰し、「江戸琳派」を興した酒井抱一(1761~1826)には、たくさんの弟子がいました。その中で筆頭弟子にあたるのが鈴木其一(1796~1858)です。

 鈴木(すずき)鈴木其(き)其一(いつ)一は、師の抱一のもとでめきめきと腕を上げ、時には、抱一の代筆を務めるほど、抱一の画風に習熟しました。
 ところが、1828年(文政11年)に師の酒井抱一が亡くなります。鈴木其一33歳の時でした。それからの其一は、抱一の画風を脱して、自分独自の個性を絵に発揮するようになります。

 今回は、そのような鈴木其一の個性が発揮された作品「朝顔図屏風」を紹介します。描かれた時期は、おそらく其一50代前半と言われています。

 現在、「朝顔図屏風」は、ニューヨークのメトロポリタン美術館の所蔵となっています。
 この屏風は、2004年に東京で開催された「琳派展」に来日しました。これを間近に見たとき、私は、その大きさから来る迫力とそこから醸し出される妖しげな雰囲気に魅せられました。六曲一双の屏風ですが、右隻、左隻とも高さ182.9cm、横幅396.3cmというサイズであり、左右並べたときの横の長さの合計は8m近いという大屏風なのです。それだけでも、鈴木其一の並並ならぬ意欲が伝わってきました。
 ところが、その大画面に描かれているモチーフは「朝顔」だけなのです。背景は金地に閉ざされています。構図的には、簡潔そのもの、と言えるでしょう。
 しかし、じっと見ていると、これは、単純な朝顔図ではなく、何か妖しい生き物が触手を伸ばしながら、画面にうごめいているかのような錯覚をおぼえてきます。

 江戸時代後期の江戸では、園芸ブームが起こり、特に朝顔の大ブームが起こって、さまざまな品種改良が行われたということです。品種改良の結果生まれたものは「変化朝顔(へんげあさがお)」と呼ばれました。
 この絵に描かれた朝顔がどのような品種なのか、私には分かりませんが、体験的に朝顔の繁殖力の強さは知っています。
 かつて我が家の垣根に植えた朝顔が驚くほどの繁殖力を示し、家を覆いつくすほどの状態になって気味が悪くなったことがありました。しかも秋になってもなお、花を咲かせ続けたのです。
 鈴木其一が描いたこの朝顔群からも、画面を覆いつくそうとするかのような旺盛な生命力と、くねくねとうごめくような勢いが感じられます。


≪尾形光琳「燕子花図」との関係は?≫

 ところで、其一のこの「朝顔図」の構図 ― 誰かほかの琳派の画家が描いた屏風絵に似通っている、と思いませんか?
 そうです、あの尾形光琳の「燕子花図屏風」です。

 光琳屏風のモチーフも燕子花のみ。どちらも単一の花だけを主題としています。また、どちらも、金地に群青と緑青だけを用いて彩色している。そしてどちらも、それだけの材料で、明快でリズミカルな絵画世界を創りだしています。

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 尾形光琳の「燕子花図屏風」は、現在は、東京・青山の根津美術館の所蔵となっていますが、当時は、京都の西本願寺にあったはずです。果たして、江戸の鈴木其一が、光琳のこの屏風を見る機会はあったのでしょうか?
 
 専門家の研究によれば、鈴木其一は、師の酒井抱一が亡くなって5年後の天保4年(1833年)、38歳の時、10か月余りにわたって近畿、四国、山陽、九州を回る大旅行に出かけています。その時に、京都には「絵画修業」と称して2か月近く滞在したようです。この間に、京の西本願寺にあった尾形光琳の「燕子花図屏風」を見た可能性は十分にあります。なにしろ、師の酒井抱一をはじめ江戸琳派の絵師たちは、光琳を敬愛していたはずですから。

 次回は、鈴木其一の「朝顔図屏風」を、もう少し、じっくりと見ることにします。
                                                                        


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