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澁澤栄一と女学館 №3 [雑木林の四季]

渋沢栄一と女学館 その3 

           エッセイスト  関 千枝子

 というわけで、私は、浮世と少し離れた女学館でのんびり暮らしていた。女学館はたいていの人がそのまま中等科に進むので、受験勉強=詰め込み教育もなかったし宿題などもあまりなかったから、私は、毎日好きな本を読んで、のんびり暮らしていた。だが、そんなのんびり教育でも勉強の好きな人は勉強する(しない人はしない)、わがクラスには大変頭のいい人がいて、級長などの制度がなくても、彼女が一番と思っていた。上級に進んでも彼女のトップ成績は揺るぐことなく、後年、現役で東大に合格している。
 勉強をしないひとたちはだが、卒業後中年おばさんになってからだが。文集を作るので近況といった文章を書いてもらったことがあるが、皆、結構うまいので驚いたことがある。途中で地方の普通の県立の学校に転校した私は、相当難関の学校に進んだ人でも、文章はからきし、という例が多いのを知っているから。女学館はのんびりしているようでも基礎はきちんと教わったし、低学年から日記を書かせたり作文教育に熱心だったので、みな自然に書く能力を備えたのではないだろうか。よく教育者で「切磋琢磨」などと言い、競争の中で能力は身に着くという人がいるが、私は信じない。初等科でのんびりしていた人で、大きくなってから、無類の力を発揮した人もいるから。この女学館のおっとりした環境、渋沢栄一の女子教育に対する考えではないかと思ったりするのだが。
 私はこの女学館に初等科二年で編入、始めは四谷塩町(現四谷三丁目)から通学していたが、翌年渋谷に転居、四年間女学館に通った。渋谷駅前から日赤病院行のバスに乗って行くのだが、朝のひと時女学館の生徒ばかりで貸しきりのようだった。戦争が激しくなり何時のころからかバスは廃止となり、渋谷から市電で高樹町停留所(今の富士フィルムのあたり)まで行き、そこから歩いて学校に行った。日赤の前あたりからイチョウ並木が美しく、今もなつかしい。
 バスや都電だとかなり時間がかかるが、学校から歩いて帰ってもそう遠くない。天気のいい日などぶらぶら散歩気分で歩いた。女学館の脇の坂をおり少し歩くと、左手に国学院、右手は皇族や家族の屋敷が並ぶ閑静な街、さらに行き、氷川神社のところを右折すると常盤松国民学校というきれいな学校がある。その前を行くと大きな通りに突き当たる。この青山学院から並木橋までの大通りを当時は「八幡通り」と呼んだ。(今はそんな名前もないらしいが)通りを渡ると金王(こんのう)八幡の大鳥居があり境内になるからだ。
 小学生の私に、八幡通りは巨大な広い道だった、今行ってみると、信じられないくらい普通よりちょっと広いくらいの道だ。金王八幡も今は道から引っ込んだところでつつましいが、昔は実に広い境内だった。お祭りのときは境内に見世物小屋が並び、「親の因果が子に報い‥‥」と手などの少し異常のある子が見世物小屋の前に立ち、怖いもの見たさでそっと覗いてみたものである。
 金王八幡は歴史の古い(渋谷で一番?)神社で、何でも源頼朝の従者金王丸が頼朝とともに都から逃げ、この地で敵に追われ切腹して死んだ、それを憐れみ、後に頼朝が、金王の名を付けたこの神社を作ったと言われており、格式高い神社だった。
神社を抜けると、屋敷町が広がる。これが私が四年間住んだ金王町(こんのうちょう)だが、山手大空襲(一九四四年五月二十五日)でまる焼けとなり、戦後は道となり昔を偲ぶものは何もない。金王という由緒ある名も戦後は全部消えてしまい、金王神社と宮益坂の上の方の歩道橋に金王坂上という地名が一つ残っているだけだ。
 金王町は、昔の東京の手山の手の典型のような町だった。というのは、渋谷駅から宮益坂と平行に登っていく坂に沿って町があるが、坂の下の方は小さな家ばかりの庶民街、坂を上るにしたがって、大きな屋敷が増え、豪壮な屋敷町になる、という町だった。
 坂の頂上から通り一つ下あたりが豪邸街で何百坪という屋敷が並ぶ中で、あひときわ大きいのが、信州財閥小坂家の屋敷。なんと三千坪の屋敷で門のところから覗いても玄関がどこだか見えないくらい大きかったが、屋敷内にテニスコートがあり、のどかに楽しんでおられるさまがうかがえた。そのころから、テニスは上流階級の品の良い娯楽だったのだろう。 この通りの反対側に、錢高組の銭高さんの屋敷もあリ、この屋敷にもテニスコートがあった。
 小坂家の下の通りには国務大臣、情報局総裁の後藤文夫さんの家があった。門構えは大したことはないが、奥に広い家で、家の前には警官の詰め所がありいつもお巡りさんが立っていた。退屈そうなので、私たち子どもが時々遊び?に行っていた。だが、今を時めく後藤さん、女中さん(当時はお手伝いさんなどという言葉はなかった)もたいへん威張っているらしく、女中仲間で評判が悪かった。我が家の女中さんは、「あそこの人、おダイコン様、おニンジン様なんて言うんですよ」と馬鹿にしていた。
 私の住んでいた家も四百坪の大邸宅だった、といっても我が家がこんな大邸宅を買えるはずもなく借りていたのである。この家を作った人は侍従さんで、引退して空気の良い鵠沼に住むことになり、家を空けておいても困るので、父の知り合いの紹介で、父が借りることになった。格式高いばかりで住むには便利とは言えないが、庭には吹上御苑から持ってきたという由緒ありげな茶室があり、厳かな家だった。金王八幡の裏手に当たり、夜などホーホーとフクロウのなく声も聞こえ、都会の真ん中にいるとは思えぬ閑静な街だった。
 こんな町が山手大空襲でまる焼けになった。あの空襲で表参道に逃げた人は何千人も焼け死んだのだが、我が家のあたりは、家の主人公はみなどこかに逃げており、留守居の使用人しかいなかったらしい。
 戦後、この町のあたりは道になってしまい、昔を偲ぶよすがもない。今、クロスタワーという大きなビルがあるが、あそこが小坂邸の跡というが、タワーに行ってみても我が家のあたりがどの辺だったか全くわからない。
 


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