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いつか空が晴れる №81 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
    -ベートーヴェン ピアノソナタ「悲愴」-
                   澁澤京子
 
 TBSが制作したドキュメンタリー映画『三島由紀夫と東大全共闘』を、あの時代の熱気に思わず引きずり込まれる感じで観た。三島由紀夫が自決したのは私が中学一年の時。一日中サイレンの音が遠くから絶えず聞こえてくる日で、終礼の時に先生が興奮していたのを覚えている。小学校高学年の時に三島由紀夫の「午後の曳航」を読んで以来、三島由紀夫を夢中で読んでいて、ちょうど同級生と三島由紀夫の「不道徳教育講座」とか貸し借りしていた時だったからとても衝撃的だった。

討論の最後のほうで天皇制の話が出てくる。三島由紀夫が「僕は日本人なんだよ、」というのに対し、全共闘の学生は「僕には国籍も国境もない」と言う、それに対し「外国人から見れば僕たちは日本人でしかない」と三島由紀夫は答えた。確かに三島由紀夫の言う通り、日本人には日本人の限界がある。
三島由紀夫が知性主義者の代表として嫌った丸山真男は、日本人の限界を知ったうえで、その限界を乗り越えようとした。できれば、丸山真男と三島由紀夫の討論も観たかったなあ、とも思う。
三島由紀夫にとって天皇は国体であり(真・善・美)を体現する理念である。一方、丸山真男にとって(真・善・美)はあくまで自由とともに個人の内面にあるものなのであって、国家が干渉するものではない。それは、国家道徳より個人の良心の方が上等であるとする漱石の考えにつながるものであるし、民主主義では個人はH・ソローのように「市民的不服従」という形をとって内面の自由を守ることもできる。
実際に軍部により間違った方向に引きずられた戦争で、戦地の悲惨を見た丸山真男。丸山真男は死を観念としてではなく、肉体のもろさ儚さを戦地の光景で目の当たりにしただろう。

このTBSの制作したドキュメンタリー映画を見ると、三島由紀夫の純粋で誠実な人柄が際立っていて、なんて魅力的な人だったんだろう、と思う。

本棚から丸山真男の『超国家主義の論理と心理』を引っ張り出し読み返していて、「軍国支配者の精神形態」まで読み進めた時、これは現政権に対する批判なんじゃないの?と思うくらい軍国支配者と今の安倍政権に共通するものがあったので、一部抜粋してみる。

・・しかし一方(ナチス)は罪の意識に真っ向から挑戦することによってそれに打ち勝とうとするのに対して、他方(日本の軍国支配者)は自己の行動に絶えず倫理の霧吹きをかけることによってそれを回避しようとする。(中略)・・間違いなく言い得ることは、一方(ナチス)はより強い精神であり、他方はより弱い精神であるということである。弱い精神が強い精神に感染するのは思えば当然であった。・・「軍国支配者の精神形態」

ウソをついてはとりつくろい、自己弁護に汲々としているどこかの総理の姿は(倫理の霧吹きをかけて回避)という表現にぴったり。
さらに、日本の軍国支配者の間には忖度が蔓延し、その余計な忖度気質のために逆に失策を犯すことなどが述べられている。
周囲の顔色を伺うことによって、重要な決断が遅れることは現政権のコロナ対策の決定の遅さを連想させるし、何事も周囲の情勢により仕方なかったこととする受動的な態度や、上位の人間が下部の人間に責任を押し付けて平然とするなどは、森友学園で職員を自殺に追い込んだことを連想させる。丸山真男の分析した日本人の主体性の欠如と軍国支配者の「無責任体系」は、今の日本の政治によくみられる光景ではないか。要するに、日本人は戦時中とそんなに変わっていなかったのだ・・

丸山真男がこの本を書いたのは、特高に尋問された経験を持ち、幹部候補生ではなく自ら二等兵として出兵し、敗戦後に戦地から戻ってきてから。
『超国家主義の論理と心理』を読んでいると、まるで上質の小説を読んでいるような静かな感動を覚えるのは、この書は丸山真男自身の内省でもあり、また戦地の悲惨を知る丸山真男のやり場のない怒りと深い悲しみが底流に流れているからだと思う。日本人の犠牲者310万人の太平洋戦争。
国民の命よりも国体を重視し、すべてが後手後手にまわってしまったために、多大な犠牲者を出してしまった太平洋戦争。
丸山真男は、たんに当時の軍国支配者を批判しただけなのではなく、二度と愚をおこすことなく日本をより良い民主主義国家にしたいとの願いを込めて書いた。こういう形の愛国心だってあるのだ。

丸山真男のファシズムの分析と定義は、今でも参考になるところがあると思う。
・仮想敵と自国の優越感情、異質なものの排除・・被害妄想、あるいは挫折感のあらわれ
・優越者の支配・・権威とヒエラルキー(階層)を好む
・理性と思考に対する不信感と蔑視
・理想の欠如によるニヒリズム(反共、反ユダヤ、反~といった否定性が公分母になる)
               ・・「ナショナリズム 軍国主義 ファシズム」参照
そもそも近代化社会にニヒリズムとそこから起こるファシズムは内在しているものとして、集団心理に流され異質なものを排除する傾向は、アメリカでもいつでもどこでも起こることであるとし、(丸山真男の友人であった歴史学者H・E・ノーマンは赤狩りにより投身自殺)、オウム真理教はかつての日本ですよ、と丸山真男は晩年、指摘した。
理想の欠如による反~のニヒリズムは、今の嫌中国、嫌韓国みたいであるし、反~や陰謀論にはアイデンティティの不安な人間が飛びつきやすい、思考停止で安易なところがある。コロナ差別も出始めている今、丸山真男のファシズム分析は心に留めておきたいと思う。

丸山真男は、『超国家主義の論理と心理』を書きながら、三島の寺子屋で八百屋さんや近所の主婦を相手に憲法を教え、市民の積極的な政治参加と自発的な市民運動に、よりよい民主主義を期待した・・最近の子供食堂であるとか、山谷のボランティアに若い子が多いとか、じわじわとではあるけど丸山真男の目指したより良い民主主義に近づいているような気がする。

丸山真男が分析したような、日本人の無意識にある日本人の精神構造。丸山真男は民主主義における日本人の倫理を支えるものとして鎌倉仏教に注目するほか、『忠誠と反逆』では武士の主君に対する忠誠と、その逆に謀叛を起こすようなエネルギーに注目する。三島由紀夫と丸山真男という全く正反対の二人が、日本人の目的を喪失した空虚さに危機感を感じて、「葉隠」に注目するのはとても面白い。この二人は正反対の立場をとるけど、日本という国に対する(情熱)を人一倍持っているところは共通している。

三島由紀夫は敗戦後の日本人に虚無を見た。戦地に赴いた丸山真男は、戦時中の軍国支配者の間で理念もなく形骸化して、権威をふりまわすための虎の威としてしか機能しなかった天皇制に、そこにすでに日本人の虚無と無責任体系を見ていた。両者の違いはとても大きい・・・・
天皇制、国家道徳という外側の道徳だけを重んじればそれはいつしか聖書のパリサイ人のように形骸化した道徳家、他人を批判して優越感を覚えるだけの偽善者になってしまう恐れがあるし、天皇制がただの権威になれば、その名のもとに神風特攻隊とかイスラムテロのような人命軽視に走ってしまう傾向もある。

・・・毎朝毎夕、改めては死に、改めては死に、常住死身なりて居るときは武道に自由を得、一生落ち度なく家職を仕果たすべき也。『葉隠』
『葉隠』には、己を殺すことが、真の武士として主体的に生きることであるという、禅やキリスト教にも共通する教えが書いてある。
主体性が欠如しているのと、己を殺すのは全く別のことであって、戦時中の軍国支配者の間に蔓延した、主体性の欠如したエゴイズムは丸山真男の分析した通り。
目的も意志もなく理想も喪失した空虚な状態では、人は容易にエゴイズムに陥り、自己利益と自己保身に汲々とするだけの矮小な人物になってしまう・・・うーん、自分を振り返ると実に難しい。せめてエゴイズムはみっともないという美意識は持っていたいところ・・・

・・・音楽という芸術の中に「意志の力」を持ち込んだのはベートーヴェンです。「理想」といってもいい。・・『丸山真男 音楽の対話』中野雄

丸山真男は若いころから熱心にコンサートに通うクラシック通で、プロも顔負けの批評をした。
自身もピアノを少し弾いていたらしい。ナチスがらみで敬遠していたワーグナーもコンサートに行ってから圧倒されたという。
所持するワーグナーのスコア5000頁ほとんどに渡り、熱心な書き込みがしてあったらしい。他の音楽評論家の書物はほとんど読まずに、自分の聴覚と勘だけを頼りにクラシック音楽の批評をした。丸山真男の場合、音楽は趣味ではなく生そのものでもあったのだ。
「調性」の発見を通しての、ヨーロッパ政治史と絡めての語りとか見事で、特に敬愛するフルトヴェングラー(ナチスを軽蔑しながらも、自分の音楽に共感できるのはドイツ人の聴衆だけ、としてドイツに残りナチスと妥協せざるを得なかった)の話は思わず引きずり込まれてしまう。無邪気な子供のように、フルトヴェングラーを聴いて手放しで感動する丸山真男。『丸山真男 音楽の対話』を読んでいると、知性と同じくらい感情の豊かだった丸山真男の姿が浮かび上がってくる。
西洋音楽の「調性」に、調和と理想を感じた丸山真男はやはり、西洋的な教養に裏打ちされた大正生まれのリベラリストだったのだと思う。三島由紀夫と丸山真男。二人は日本的な、日本人の古層にあるものを追及していった。三島由紀夫は天皇制に、丸山真男は日本人が日本的なものを取り出そうとすると必ず失敗することが、日本人の「執拗低音」としてあると考えた。目が目を見ることができないように、日本的なものを私たちには対象化して取り出すことが難しいのだろうか・・(ところで音楽の好きな丸山真男は琴とか琵琶、尺八、三味線の邦楽はどう思っていたのだろうか?これはぜひ聞いてみたかった。)

丸山真男の好きな音楽のリストには載っていなかったけど、タイトルにはベートーヴェンの「悲愴」を選んだ。『超国家主義の論理と心理』にはふさわしいんじゃないか、と個人的に思ったからだ。

・・・学問的真理の無力さは北極星の無力さと似ている。北極星は個別的に道に迷った旅人を導いてはくれない。それを北極星に期待するのは期待過剰というものである。しかし北極星はいかなる旅人にもつねに基本的方角を示すしるしとなる。~『自己内対話』丸山真男

「学問的真理」をそのまま「真・善・美」と置き換えると、それは人の無意識のさらに奥底にあるものであって、これと言って形もなく柔軟でとらえ難い、自分でははっきりと自覚することはなかなか難しいものじゃないだろうか、と最近思うのだ。


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