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梟翁夜話 №60 [雑木林の四季]

「桜伐る馬鹿」

               翻訳家  島村泰治

それと知って馬鹿になるなど、およそまともな人間の仕草ではないが、その馬鹿にあへてなり、回りまわっていま、ほっとした思ひに浸ってゐると云ふ話。

去年の夏、わが庵では思ひ切って雑木を伐った。猫に額ながら落ち葉などを愉しむ小武蔵の風情が取り柄だったが、数本をひと思ひに伐った。伐って光を入れて芝を広げやうと算段をしたのだ。その切っ掛けが一本の老桜、半世紀も前に亡父が植えた苗木が伸びた見事な桜だ。花頃には通りすがる人も立ち止まるほどの花を咲かせた。傘寿を越えて花咲か爺の境地も悪からず、とにんまりさえしたものだ。

そんな老桜を伐り倒すなどは、思ひも寄らなかったが、そうする羽目になったのにはこんな事情がある。かねてから東電からの電気の引き込み線がこの桜の近く、中空を走っている。現在の家屋を新築する以前、つまり昔の庵は小ぶりで桜も引き込み線と絡むほどには伸びていなかった。

今となっては詮ない繰り言だが、ひとつには、庵を建て替えた折に桜の枝張りを見込んで、引き込み線の位置を案配しておけばよかった、ふたつには、以後こまめに桜の剪定を重ねておけば無難だった、などなど。所詮は人間のやること、誰とて責める気はないが知恵者がいなかったのが不幸だった。

話を戻せば、その老桜を伐る羽目になって、桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿という先人の知恵が思はれる。国の花を伐り倒すなどは怖れ多く、伐って枝振りを愉しみ花を慈しむ梅の趣きも承知してゐるから尚更に、これはえらいことになったことよ、と大いに嘆じた。

追ひ詰められて一計を案じる。どうせ伐るなら人手に掛けるのは潔くない。いっそわが手でひと思ひに伐り倒せば、老桜の心根も安からう。以後、どう曳き綱を掛ける、どう鋸を入れる、どの方向にどう曳き落とす云々に思案を尽くすこと数ヶ月、落ち葉が落ち尽くすまで待とうと一決、夏から秋へ日が流れた。

そして11月、愚妻と愚弟を巻き込んで老桜落としに取り掛かる。三角法や幼い力学を尽くしてひと思ひに伐り落とした経緯がこの動画だ。
https://www.youtube.com/watch?v=WO9D09v1qDs

見れば僅か数秒の出来事だが、ここに至る難行苦行は計り知れない。画中に聞こえるうめき声が老桜の断末魔の叫びに聞へていまも切ない。

そしていま、その翌年の三月下旬。巷はコロナとやらに慌てふためき、折柄花見時の上野さえ人がまばらで、桜どころではない様子。そんなある日、愚妻が天下の一大事だと云ふ。なにかと問えば、伐った老桜が咲いてをると云ふ。咄嗟にわけも分からず押っ取り刀で老桜の伐り株に行って見て驚いた。株の南側、日当たりのよい地面に近い辺りに鮮やかな桜の花が一輪、見事に咲いてをる。何の枝振りもなく、花が一輪開いてをるではないか。

島村60.jpg

伐るにつけての懊悩が思ひ出されて、私はこの一輪の桜の花を凝視した。すでに老いの身、この桜が満開になる様を見ることはあらう筈がない、せめて桜材でも刻んで余生を送らんと期していたから尚更に、この一輪の桜花の咲き姿は鮮やかだった。どっこい生きてゐる、老桜がそう云ってゐる。

いま、その辺りを囲って杭を立て花をひとの粗相から守ってある。いずれこの辺りから伸び出すだらう若枝を伐り株に沿って育て上げるつもりだ。それが辺りを覆う満開になる頃にはこの世にはをるまいが、この一輪を見たいまはすでに悔いはない。ただ、老いさらばえ伐り倒されてなお花を咲かすこの老桜がしきりに羨ましい。



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