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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №30 [文芸美術の森]

                            シリーズ≪琳派の魅力≫ 

         美術ジャーナリスト  斎藤陽一

          第30回:  酒井抱一「夏秋草図屏風」 その2 
(1821年頃。二曲一双。重文。各164.5×181.8cm。東京国立博物館)

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≪なぜ絵師に?≫

 酒井抱一の「夏秋草図」は、当初、尾形光琳が描いた「風神雷神図屏風」の裏に描かれたものでした。
前回は、表絵の「風神雷神図」と裏に描いた「夏秋草図」には、抱一が仕掛けたさまざまな対応と対比がある、ということを見ました。
 では、なぜ、一つの屏風の裏に別の屏風絵を描くなどということが出来たのか?

 このような注文を抱一にした人物は、時の将軍・徳川家斉の実父であり、権力者でもあった一橋家の当主・一橋治済(ひとつばしはるさだ)でした。当時、尾形光琳が描いた「風神雷神図屏風」は一橋家にありました。(俵屋宗達作の「風神雷神図屏風」ではありません。宗達作品は京の建仁寺にありました。光琳は宗達の「風神雷神図」を写していたのです。念のため。)

 「江戸切絵図」を見ると分かりますが、抱一の実家である酒井家と一橋家の屋敷は隣接していました。日頃、懇意な間柄だったようです。そう、絵師・酒井抱一は、姫路藩主・酒井家の出身なのです。

ここで、酒井抱一の生い立ちに触れておきたいと思います。(下図参照)

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 酒井抱一は宝暦11年(1761年)、姫路藩主・酒井忠仰(ただもち)の次男として、江戸・神田小川町の酒井家別邸に生まれました。「抱一」という名は雅号であり、実名は忠因(ただなお)。姫路藩主の息子だったとは言え、抱一は生涯を江戸で過ごした江戸っ子です。

 父・忠仰亡き後、兄の忠以(ただざね)が家督を継ぎましたが、兄に子どもがいなかった時期には、抱一(忠因)はその後継者として「仮養子」となり、酒井家上屋敷で暮らしました。(そのまま行けば、抱一は絵師とはならず、姫路藩主となっていたかもしれないのです。)
 兄の忠以は大変な趣味人で、自ら茶道や陶芸を楽しみ、絵画や俳諧に親しんだため、酒井家の屋敷には、茶人や能役者、絵師や書家、俳諧師などが出入りして、一種の文化サロンのようだったと言われます。このような環境の中で、抱一(忠因)もまた、絵画や俳諧などに親しんでいったと思われます。

 ところが、兄・忠以に実子が出来たとき、抱一(忠因)は仮養子を解かれました。さらにその後、兄が亡くなった時にはその実子・忠道が藩主となり、新藩主・忠道は自分の実弟である忠実(ただみつ)を後継ぎと定めました。いわば抱一(忠因)の甥たちが藩主の嫡流となったのです。抱一は酒井家の上屋敷を出て、中屋敷に移りました。つまり、抱一は、正統から外されてしまったのです。

 このようなお家の事情によって、おそらく自分の意志ではなく、抱一は出家して浄土真宗・西本願寺系の僧侶となりました。
 出家したとはいえ、抱一は、およそ僧侶のようには振る舞わず、江戸市中に住まいを持ち、吉原などの遊里に出入りするという粋人のような暮らしを送りました。ついには、吉原の遊女を身請けして一緒に暮らしました。
市井の人となった抱一は、絵を描くことに熱中し、俳諧にも精を出し、風流を共にする仲間たちと交流しました。かくして、絵師・酒井抱一は誕生しました。

30-3.jpg 尾形光琳が描いた「風神雷神図屏風」の裏に絵を描くよう、酒井抱一に注文した一橋治済(はるさだ)は、屋敷が隣接していることもあって、おそらく酒井家の事情や抱一が絵師になったいきさつを承知していたものと思われます。
さらに一橋治済は、抱一が尾形光琳に私淑していることも知っており、いわば「腕試しのつもり」(玉蟲敏子氏)で注文したのかも知れません。抱一は、敬愛する尾形光琳の屏風の裏に絵を描くとあって、喜んで腕を振るったことでしょう。

 次回は、この酒井抱一の「夏秋草図屏風」をじっくりと鑑賞したいと思います。
                                                                  


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