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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №23 [文芸美術の森]

第四章 高島さんの言行録 9

                早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「道がなんだか知っているか。だったら言ってみろ。」

 さて高島さんと私は六〇年代の終わり、昭和四十三年十二月に京都・奈良に数日の旅行を試みた。その頃の私は日誌をのぞくとひどく多忙な日々を送っているが、数日間やっと暇をみつけ、高島さんに案内してもらった。私も初めてではないが、かれに案内してもらうほうがはるかに有益だった。三年坂、銀閣寺、三宝院、西大寺、法隆寺、薬師寺、唐招提寺、三千院、寂光院その他を訪れた。私に見せたいもの、自分が再見したいもの、両方
の兼ね合いで選んだのだろう。七十八歳の高島さんが私と同じリズムで行動したのだから、画家は相当の健脚といわねばならない。かれの遺稿『ノート』に次の一首が記されている。

  二月堂その地茶屋にかけ居れば
  屋根の大空しみじみとあり.

 茶屋に腰掛けて甘酒でも飲んでいるのだろう。あとにつづく何気ない「屋根の大空」という二つの単語の結びつきが、上向く画家の姿勢と視線、そしてせまい路地の軒下から解放される大空、心の憧(あこが)れをよく表している。「せまい路地」というのは清水寺の坂道で高島さんと甘酒を飲んだときの私の記憶による。
 私はカメラを持参したので、あちこち写真を撮ったと思う。薬師寺だったような気がする。まもなくまわりの風景から夕暮れ色が消えそうな気配だったので、私は高島さんに写真を撮ってくれるように頼んだ。高島さんが私のカメラを手にして数メートルはなれ、カメラを手にかまえたとき、また私の軽口が口をついてでた。「見合い写真にでもしようと思いまして」。高島さんは表情をかえないままこう答えた。「私はそんなものは撮らんことにしている」。私は笑いながら「冗談ですよ、先生」と言ったが、そのあと写してもらったかどうか、写真の出来もネガの行方もまったく記憶にない。
 高島さんの絵は一部の愛好者のもので、死後も認知されないままだろうと私は一方で考えていた。さらに高島さん自身が真理(真実)というものは「秘匿」されるものだとも言っていたので、画家の死後、作品が一般に知られることがなくとも、そのことが逆に稀なる真実であることを証明している、真実とはそんなものだという諦めがあった。
 現在のように高島野十郎の絵が多くの人びとに迎えられると私が賢察していれば、もっと画家の肖像を撮っておくべきだった、と思うことがすでに「凡夫」のあさましさである。「見合い写真」、これこそ「道がなんだか知っているか、だったら言ってみろ」と『ノート』に記すほどの人にとって、俗の典型的な見本だったにちがいない。
 家庭は社会や国家を支える無数の「巣」であり、そこへの志向はもちろん俗の「ぬくもり」への帰郷である。ミルチャ・エリアーデは『聖と俗』で、「探求、中心への道を選んだ者は、家族と共同体のなかの地位、つまり(巣)を放棄して、ただ一人至上の真理への〈遍歴〉に身を捧げる」と書いている。求心であれ遠心であれ、巣を離れて自由に生きたいと思う者は少なからずいるだろう。
 少なくとも当時は、家庭を持つことが世間でまず仮免許を得る行為なので、家を放棄する巡礼や遁世者は、世間と社会を捨て、巣ごもりしないとすることに最大限の努力をする。高島さんは「見合い写真」や「お見合い」という俗の標本に手を染めることを、瞬間の判断で拒否した。
 最後に。二十一年間、高島さんは私の年齢を聞いたことがなかった。こんなに気持ちよく爽快なことはない。相手の年齢をたしかめたり、年齢にこだわったりする人にでくわすと、また自分自身がそうであるときにも、私は次の遺稿の旬を座右の銘とするように心がけている。

 時間といふものは無い、時間とは人生そのものだ.空間亦復如是.(『ノート』より)

『過激な隠遁~高島野十郎評伝」 求龍社

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