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多摩のむかし道と伝説の旅 №36 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

野火止用水水辺の道 3

                原田環爾

35-6.jpg 元弘3年(1333)後醍醐天皇の倒幕の命により、新田義貞は上州新田庄の生品明神で挙兵、各地の東国武士を次々と従え武蔵野を南下、この辻にさしかかったところで、鎌倉へはどの道をとったらよいか大いに迷った。そこで義貞はこの後も道に迷うことがない様、鎌倉街道方面に1本の桜を植えたという。この桜は「迷いの桜」と呼ばれたと言われるが、もちろん今はない。ただ辻の一角にある東村山警察署八坂交番の裏にこの名を後世に留めるべく昭和55年に桜の苗木が植えられた。
 それにしても九道の辻は多数の車両が渋滞するやっかいな交差点だ。府中街道を横切り、続きの野火止用水の橋の袂に出ると、そこに2基の石塔が立っている。見ると元文5年(1740)の石橋供養塔と明治14年造立の馬頭観音だ。この辻が古い道筋であることを物語っている。用水右岸の道に入る。西武多摩湖線のガードをくぐり、100mも進めば用水は暗渠となり、暗渠の上は奇麗にインターロックされた遊歩道に変貌する。小さな野火止広場を左にやり、萩山仲通り商店街をやり過ごし、西武新宿線を越えると、遊歩道は深い並木の木陰道となる。程無く新青梅街道と交差する。交差点の北東角地はボーリング場で大きなピンが立っている。街道を渡る36-1.jpgと野火止用水は開渠となり、水辺に雑木林が戻り、辺りはぐっとローカルな雰囲気になる。水辺の道も野火止通りと呼ばれる。ここからは恩多町になる。かつては大岱村(オンタムラ)と呼ばれたが、大岱ではわかりにくいので恩多に変えたという。風変わりな名前にはこんな経緯がある。江戸時代、村はもとは『日比田(ヒビタ)』と呼ばれていた。ところが幕府に出す報告書に誤って『昆田(コンタ)』と書いてしまったため『こんた』という名称になってしまった。『こんた』という発音は『おんた』に近いことから、やがて『大岱(オンタ)』と呼ばれるようになった。ところが『大岱』ではわかりにくいということで、市制施行時に現在の『恩多』となったという。
 程無く稲荷橋という小橋に来る。橋の名は左岸に稲荷神社とそれに隣接して稲荷公園があるからだろう。稲荷神社は寛延年間(1748~1750)名主當麻喜太史が五穀豊穣の神として京都伏見稲荷を勧請し、大岱村(恩多村)の鎮守としたものだ。その稲荷橋から100mも進めば左岸に水車が廻る懐かしい風景が見られる。恩多野火止水車苑だ。小さな木橋を渡って苑内に入ると、雑木林に囲まれてカタコト廻る水車を眺めることができる。多摩において野火止流域で初めて水車を設置したのが大岱村だ。元々野火止用水は川越藩の独占で多摩郡の村人はただ「眺めるだけ」の関係であったが、天明2年(1782)大岱村の當麻半次郎が酒造米の精米を目36-2.jpg的に川越藩の許可を得て水車を設置した。當麻水車または屋号でヤマニ水車と呼ばれ、これが恩多の水車の始まりである。天明2年より昭和26年まで、直径7.5m、幅0.9mの大きな水車であった。当時は現在ある水車と異なり、上流で堰を止め、回し堀で導水し、精米、精麦と製粉の動力源として利用されたという。野火止用水の流路にはかつてこの様な水車が何十も廻り、製粉や精米を業とする民でにぎわったと言われる。(つづく)


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