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じゃがいもころんだⅡ №23 [文芸美術の森]

中村汀女とわたし

             エッセイスト  中村一枝

 六十年くらい前に、我が家の台所を二階にすると決まったとき、姑汀女は「二階に台所なんてそのうち、不便になって困るわよ」と、決して間向うから反対はしなかったが、多分、この嫁は何をバカなことをと喉もとまで出かかった言葉をのみこむのに苦労したんだろうな。と、今は思う。初めて汀女に逢ったとき、汀女はまだ五十代、貫禄と体の大きさが比例していた。私は弟が生まれるまでは一人っ子のわがまま娘。好き放題、わがままいっぱいの生活を送っていた。
 「あのお母さんについていけるの? おヨメさんになったら大変なんだから。」周囲からあれこれ言われながら、いつの間にか、汀女の長男湊一郎のお嫁さんになっていた。
 当時汀女の家には隣接して二階建ての家があり、当初、そこに住めばいいといった話も出ていたのに、このわがまま嫁さんはその手には乗らじと、実家のある大森に、夫を連れてきて、最後まで住みついている。汀女は、内心では、あれ、あれ、と思ったかもしれないが、それでも、表立っての反対もなく、夫と私を大森に自由に住まわせ続けてくれた。
 少なくとも汀女の中にはふつうの女の持つ、小うるさい、詮索とか意地悪とかいったものが全くない。というより、生まれる余地はなかったに違いない。
 嫁とか姑とか、世間一般で気遣う、ややこしい関係がほとんどなかった気がする。でも、私より何年か後に弟の健史さんが結婚した。相手はまだ女学生のような十八歳の女の子で出身は熊本だった。
 きっと、私の代わりに、義妹が身を尽くして中村家の嫁の座を保ってくれたのだろうと思うが、今、思うと、私はまったく勝手な嫁さんだった。そのことを見抜き、腹の立つこともたくさんあったろうに、汀女は、小言一つ言わなかった。
 熊本の豪農の一人娘として育ち、その後、結婚して家を離れたが、母、ていは生涯、熊本を離れなかった。汀女もまた、一人熊本に残した母親を思いやりながら、自身は熊本に帰ることはなかったが、一人で実家を守り抜いた。二人に共通しているのは、甘えというものを拭い去った、人間としての強さと、大きさである。
 子どもが小さかったとき、一度だけ、ていおばあさんが存命中の、汀女の実家を訪ねた。江津湖という湖の傍と思っていたが、湖というより川に近い。幼い頃から水面に舟を浮かべ、さおをさして舟を動かしていたという汀女は、普通の少女の持つあこがれや夢を、十七文字に託す世界を選んだ。 その豊かな感受性と、大らかな生きざまは江津湖の風土が育てた贈り物だったのだ。
 中村汀女の世界などまったくく知らずにきたのに、時折、彼女の俳句を開くと、今さらに、汀女の大きさとあたたかさを思い出さずにはいられない。なんとも愚かな嫁には違いないが、今、汀女と向き合って、語り合いたいことばかりだ。(つづく)

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