渾斎随筆 №48 [文芸美術の森]
秋の空
歌人 会津八一
先日、奈良で、彿教の盛大な式典が行はれた時に、大阪のNHKでは、私の作った三首の歌を全国に放送されました。しかし、そのあとで、私がいろいろの人たちに聞いて見ると、殆ど十人が十人まで、その歌の意味が、一つも解らなかったといふことでした。その歌といふのは
しぐれふる のすゑのむらの このまより
みいでてうれしやくしじのたふ
すゐえんのあまつをとめがころもでの
ひまにもすめるあきのそらかな
あらしふくふるきみやこのなかぞらの
いりひのくもにもゆるたふかな
この三首ですが、一番目のは、冬の雨の降ってゐる野原の、向かふの巣に、木立がつづいて見えるが、そのさびしい木立の梢の中から、ふと、薬師寺の塔のさきが、目にはひつて来たのは、うれしかった。といふことで、何もむづかしいと、いふほどのものではありません。
それから最後の歌は、遠い昔に、咲く花の匂ふが如く今盛りなりと歌われた、その奈良の都は、ただ見渡すかぎりの荒地となり見てて、折しも吹きすさぶ嵐の中に、只今西に沈む入日のために、眞紅に染められた雲と共に、薬師寺の古き塔は、燃えんばかりだ。といふので、これも格別わかりにくいといふほどの歌でもありません。
けれども、三首のまん中の歌は、或はいくらか解り易くないかも知れません。それは
すゐえんのあまつをとめがころもでの
ひまにもすめるあきのそらかな
まづこの「すゐえん」といふのは、漢字では「ミヅケムリ」です。およそ悌教の寺院の塔ですが、その頂上には銅の桂があり、その周りに九輪といって輪のやうなものがあり、その上に、やはり銅で、網の目のやうに透し造りになって、全鮭が火焔のやぅに造られて居るのをすゐえんといひます。
このすゐえんの意匠は寺によって少しづつ達ふが、粟師寺ののは、その網の目のやうな中に、何人かの天女の群が、笛を吹いたり、舞ひを舞ったりしてゐるので、それを、下から見上げてゐると、今日は、よく晴れた日で、その天女の袖や祝の間からも澄み切った秋の室の色が見える……といふのです。
元来、塔といふものは、決してただの装飾物ではなく、本来は釋尊の骨が、この下に埋められてゐるといふことを、遠い彼方の人々にまで知らせるために、高々と造られてゐるのです。これは佛教の本もとの印度の人たちの考へ方であったのを、中国朝鮮を経て、日本へも傳へられて、飛鳥時代、寧楽時代にも、この考で、寺々に塔が立てられたのです。けれどもその頃の人たちは、舎利といふ小粒の石を釋尊の骨と信じて、それを二粒か三粒、小さい水晶の壷に入れ、それを黄金の器に、それを更に銀の器に、それをまた銅の器に入れたのを、塔の礎石の眞中にあけた孔の中に納め、その孔の上に、塔の中心柱を立てたものです。
こんな風に大切にして約めてある佛の骨を、これらの天女たちは、二六時中、千年あまりの間、くりかへし、くりかへして、この高い空の上から、佛を禮讃し、感歎しつつ、唱歌舞踏をつづけてゐるのだといふことを承知しながら、改めて晴れ晴れとした秋の空に、この塔のいただきの天女たちの姿を眺めていただきたいものです。
しぐれふる のすゑのむらの このまより
みいでてうれしやくしじのたふ
すゐえんのあまつをとめがころもでの
ひまにもすめるあきのそらかな
あらしふくふるきみやこのなかぞらの
いりひのくもにもゆるたふかな
この三首ですが、一番目のは、冬の雨の降ってゐる野原の、向かふの巣に、木立がつづいて見えるが、そのさびしい木立の梢の中から、ふと、薬師寺の塔のさきが、目にはひつて来たのは、うれしかった。といふことで、何もむづかしいと、いふほどのものではありません。
それから最後の歌は、遠い昔に、咲く花の匂ふが如く今盛りなりと歌われた、その奈良の都は、ただ見渡すかぎりの荒地となり見てて、折しも吹きすさぶ嵐の中に、只今西に沈む入日のために、眞紅に染められた雲と共に、薬師寺の古き塔は、燃えんばかりだ。といふので、これも格別わかりにくいといふほどの歌でもありません。
けれども、三首のまん中の歌は、或はいくらか解り易くないかも知れません。それは
すゐえんのあまつをとめがころもでの
ひまにもすめるあきのそらかな
まづこの「すゐえん」といふのは、漢字では「ミヅケムリ」です。およそ悌教の寺院の塔ですが、その頂上には銅の桂があり、その周りに九輪といって輪のやうなものがあり、その上に、やはり銅で、網の目のやうに透し造りになって、全鮭が火焔のやぅに造られて居るのをすゐえんといひます。
このすゐえんの意匠は寺によって少しづつ達ふが、粟師寺ののは、その網の目のやうな中に、何人かの天女の群が、笛を吹いたり、舞ひを舞ったりしてゐるので、それを、下から見上げてゐると、今日は、よく晴れた日で、その天女の袖や祝の間からも澄み切った秋の室の色が見える……といふのです。
元来、塔といふものは、決してただの装飾物ではなく、本来は釋尊の骨が、この下に埋められてゐるといふことを、遠い彼方の人々にまで知らせるために、高々と造られてゐるのです。これは佛教の本もとの印度の人たちの考へ方であったのを、中国朝鮮を経て、日本へも傳へられて、飛鳥時代、寧楽時代にも、この考で、寺々に塔が立てられたのです。けれどもその頃の人たちは、舎利といふ小粒の石を釋尊の骨と信じて、それを二粒か三粒、小さい水晶の壷に入れ、それを黄金の器に、それを更に銀の器に、それをまた銅の器に入れたのを、塔の礎石の眞中にあけた孔の中に納め、その孔の上に、塔の中心柱を立てたものです。
こんな風に大切にして約めてある佛の骨を、これらの天女たちは、二六時中、千年あまりの間、くりかへし、くりかへして、この高い空の上から、佛を禮讃し、感歎しつつ、唱歌舞踏をつづけてゐるのだといふことを承知しながら、改めて晴れ晴れとした秋の空に、この塔のいただきの天女たちの姿を眺めていただきたいものです。
昭和二十七年十二月NHKにて録音
『会津八一全集』 中央公論社
2019-12-29 01:27
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