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ジャガイモころんだⅡ №22 [文芸美術の森]

ささやかな幸せ

             エッセイスト  中村一枝

 自分の命のたたみ方について何となく考える年になってきた。たたみ方を殊更考えなくても終わるときには何とか終わるのだろう。若い時には生命つきるまでとか、真剣に考えて特別の「もののように「おもっていた。子供のころは、結核の人の病気など読んで、そういう病気になったときの切ない胸の内を察して涙を流したりもした。なにしろ当時は結核と言えば不治の病、一度侵されたら死に至る病と思われていた時代だ。
 時代とともにいろんなことが変わってくる。今朝ぼやーっとテレビを見ていたら、交友関係もスマホによって大変換を迫られているというから、人間関係という、人間の生き方の根本にあるものまで及んでいるというのだから、昭和のはじめ生まれもぼやぼやしてはいられない。私はひっそりでもがちゃがちゃでもいいが、どうせならがちゃがちゃのほうが私らしいかななどと思った。
 昨日もいつものゴミだしをしながら隣の奥さんK夫人とちょろっと立ち話をした。彼女との付き合いもすでに半世紀を超えた。
 実は、彼女の前の住人S夫人とは隣同士から親友になった。娘たちも姉妹のように親しく、近所づきあいはほどほどにという枠を超えていた。人一倍大きいい魅力的な目をくるくるさせながらS夫人は言った。「会社の人事異動が発表になるとなぜか主人は家さがしを始めるのよね。」その話を夫にすると、「また、Sさんが」と言って大笑いになった。実はこういった話を同じ社宅内でやったらもめごとの一端になる。笑い話に終始できたのはS夫妻も私の家もこだわりというものを持たないタイプだったからだと今は思う。
 住む土地を探して歩いているとき偶然出会ったのがSさん夫婦で、男同士は顔なじみだった。どちらもへんに堅苦しい考え方に左右されないおおらかさを持っていた。私が「あのひと、いい人?」と聞いたとき、夫が、「ああ、いい人だよ」ととひと言。それがS家との長く続いた友情の始まりだった。現在も、子供の代までつづく深い付き合いが続いている。
 人間関係で次に何が起こるか何が始まるか想像できないところが人生の面白さなのだ。今日もゴミを出しながら、Sさんのあとに越してきたKさんと他愛ないおしゃべり。お互い耳も遠くなっているけれど、この隣があればと思う。そんなささやかな思いにはぐくまれ、八十媼はゴミ出しというささやかなコミュニケーションの幸せに挑んでいる。

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