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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №18 [文芸美術の森]

高島さん言行録 4

                    早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 「あれはもう私の息子のようなもんじゃ」
 私は父親が亡くなったので郷里の宅地を整理し、練馬区に家を建て、母と暮らし始めた。一九六〇年代だった。設計家にも頼まないふつうの住宅ながら、高島さんが最初来訪したときに、「りつばな家だなあ」と感心したのを憶えている。以前の借家が戦災バラックでひどいイメージがあったからだろう。次回、画家は新築の記念に花の苗をわざわざ持参してくださった。
 私はその頃高島野十郎を主人公に小説を書くつもりでいたが、二人のあいだで話題が作家と小説におよぶと、かれは身をのりだすように私を煽って十分その気にさせた。「書きなさい。書きなさい。私なら小説を書く。書きたいことが山ほどある。私は絵描きにならなかったら、作家になっていたはずだよ」。
 いつも真っ直ぐな感じの画家が、小説を書くと聞いて、私は意外な気がしたが、没後、《傷を負った自画像》(口絵)を見て、やはり高島さんは悩める「文学青年」だったのかとの思いを深くした。
 私には東京の汚染した空気が合わず喉を痛め、体調不良の日がよくあった。それで高島さんが私のことを気遣って訪問し細かな忠告と気遣いをしてくれた。しかし私にはそれが逆に不満で、ベトナム戦争の惨劇を「慈悲」だと考えるほどの、すべてに超越している人が、たかが青年の病気を憂慮して、と日記に感想文を書いている。私自身は「いつ死んでもいい」という投げやりな心境だったので、画家が高齢になってもまだそんな気がかりから逃れられないでいるのか、という身勝手な言いがかりを書きつけている。
 「親の心子知らず」である。後年、姪の斐都子さんから「叔父はあなたのことを、あれはもう私の息子のようなもんじゃと言っておりましたよ」と聞いて、私は高島さんとのさまざまなことがいっぺんに解けたような気がした。私の健康を気遣われたあとにも、こんどは就職の件を心配して何度も来宅されている。これははっきりメモされているので、忘れようがない。
 こともあろうに、日記の最後にはこう書かれている。「今日はじめて元気がでる。しかし先生と話しているうちにまた疲れがでてくる」。

《月》をめぐって
 昭和三十八年(一九六三)の日誌には高島さんからもらった《月》について記されている。
 「高島さんの増尾のアトリエに月の絵をもらいにゆく。道場だ。学び得ること量りしれず。闇のなかに月ひとつ冴えて、ほかに何もなし。闇もまた月の光に浸されて間にあらず。闇が月そのものである。月は闇の空間を暗示する手だてである。具象を徹底して押しすすめてゆくと抽象に変身するという典型的一例」。
 舌足らずなメモだが、具象から抽象に移行したカンディンスキーやモンドリアンを念頭においていたのだろう。
 その後まもなく、親しくさせていただいた宇佐見英治宅に《月》を持参した。氏はフランスの彫刻家ジャコメッティと親交をむすび帰国して二年ほど経ていた。その宇佐見さんにジャコメッティ作品の写真を見せてもらい、「すごいなあ!」と私は初めて彫刻に開眼した。
 私が感銘をうけた作品を宇佐見さんがどう評価してくださるか、それを知りたかったので、高島さんの《月》の絵を持参して風呂敷からとりだし、畳のうえにおいた。すると氏も「すごいなあ!」と言って、じっと凝視した。さらに 『芸術新潮』に連載中の中原佑介にも連絡していただいた。『芸術新潮』八月号に中原氏の、他に数人の画家をふくむ野十郎訪問記が掲載された。「時代錯誤ではある」といいながらも好意的な紹介文だった。もっとも、好意的だが「時代錯誤」の一言で一括した、といえないこともない。
 インタビューで画家はほんものの闇を物理的に表現したいと語っている。中原氏が野十郎を「求道者というより科学者にちかい」と紹介しているのも、画家の側面をとらえたユニークな指摘である。この記事を画家本人がどう受け取ったかは知らない。その後、九月二十日に画家から葉書がきたとメモしているが、なくしてしまったので、その件について書いてあったかどうかも定かでない。


《過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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