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雑記帳2019-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2019-12-15
◆「すべては畑にあり~野菜は五感で味わう」

毎年12月には、東京都消費者月間の関連事業で、実行委員会と東京都農業経営者クラブ、東京都農業会議、東京都農林水産振興財団4者の共催で、食と農セミナーが開かれます。各界で活躍している講師を迎えて「食」にまつわる話を聞いたあと、農業者と消費者が同席して、東京の農業の可能性や未来について語り合うというプログラムは、毎回大変人気があります。会場は中野サンプラザ。今年の講師は人気のイタリア料理シェフ、神保佳永さんでした。

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会場風景

神保さんは、「すべては畑にあり」を信条に、野菜の魔術師の異名をとる料理人です。
港区青山に「HATAKE AOYAMA」の名前の野菜料理中心のイタリア料理店を経営しながら、食のコンサルテイングやメデイアなどでも活躍する一方で、個人のボランテイア活動として小、中学校で食育活動にとりくんでいます。今回その活動が、映像を交えながら紹介されました。

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イタリア料理店「HATAKE AOYAMA」のオーナーシェフ 神保さん

もともとは野菜嫌いの神保さんがヨーロッパで修行中に野菜のおいしさにめざめ、単なるツマとしてではなく、野菜をたくさんつかう料理を出したいと開いたのが「HATAKE AOYAMA 」です。美味しい野菜を求めて畑をまわるうち、探しあてた野菜の一つが江戸東京野菜の「雑司ヶ谷ナス」でした。
雑司ヶ谷ナスは、他の江戸東京野菜と同様に栽培が難しい。大正時代の都市化でいったん消滅しましたが、近隣の農家の努力で復活したものです。種はつくば市の遺伝資源センターにありました。ここには16万種の種が保存されています。復活した雑司ヶ谷ナスは現在、神社や小学校でも栽培されているそうです。

江戸時代、なすは初カツオと同じくらい江戸っ子に人気の食材でした。
小ぶりで丸みがあり、甘味の強い雑司ヶ谷ナスは、しぎやきや蒸しなす、おろし汁にして食べられました。
神保さんは、将来食のプロをめざす農芸高校の生徒さんとともに、雑司ヶ谷ナスの新しいメニューに挑戦、江戸のおろしなすをアレンジしたジェノベーゼ風パスタは高校生が目を見張るおいしさでした。
雑司ヶ谷ナスのおいしさをもっと多くの人に知ってもらいたい、神保さんの願いです。

神保さんの店では農薬か無農薬にはこだわらず、大切にしているのは「旬」です。野菜の嫌いなシェフがどう料理すれば食べてもらえるか、試行錯誤の中から生まれた確信は、東京の「旬」を知ればもっと楽しくなる、ということでした。
そこから、子どもたちの食育活動が始まります。
自分たちで育てた野菜や米を給食で食べた子供たちの表情が変わる、食材に関心を持ち、集中力もたかまるといいます。絵を描かせると、野菜本来の姿がとらえられている。農体験をすれば、リアルになるのです。

学校に野菜の栽培や米作りを持ちかけても最初は門前払いでしたが、少しずつ受け入れてくれる学校が増えてきました。今では神保さんの活動は東京都内だけでなく、全国にひろがっています。プロの料理人が子供と接触する機会を、たとえばサッカー選手がコーチをするのと同じように考えてもらえればいいと神保さんは言います。

後半は、参加者が8つのグループに別れての交流で、大いにもりあがりました。
消費者の何となく抱えている農薬への不安は、農薬がいかに管理されているか、住宅に囲まれた都市の畑で農薬を散布する時には周辺にどれだけ気を使っているかなどの話を聞いて、認識が変わったという参加者もいました。
私のテーブルでは、東京の野菜をもって食べたいのにどこで売っているのかわからない、食べたい消費者に東京の野菜を届ける仕組みをつくってほしいという意見が出ました。

◆東京の女性農業者は元気です。
秋の女性農業委員の研修が多摩市で開かれ、多摩市の取り組みを聞いたあと、3軒の女性農業者の圃場をめぐりました。

★多摩市の青木幸子さんは朝採れ野菜にこだわって農家レストランを開きました。
夫はサラリーマン、ほとんど1人で耕す7反の畑 は住宅地の中にあります。40品種、70品目を栽培しています。
野菜は芽が出てから花が咲くまで食べられることを知って貰いたい、都市農業が実はどんなに大変かも知って貰いたい。そんな思いを込めて開いた農家レストランは、子育てを終えた世代をターゲットにしました。時間をかけてゆっくりおしゃべりしながら食事を楽しむのが狙いです。ズッキーニの花のフライや大根の花のおひたしも出るそうです。今は畑が忙しくて店が開けられず、予約の取れないレストランになっていますが、一日も早く店を軌道にのせたいとはりきっています。

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青木さん
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住宅地のすぐそばの青木さんの畑
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もう収穫は終わったが青木さんおすすめのイタリアントマト

★日野市の石塚昌子さんの農園は体験農園です。
石塚ファームは400年続く農家。納屋には昔の農具も大切に保管されていました。
ファミリーや高齢者向けの体験農場としてだけでなく、「癒やしの農園」として、更生中のこどもたちやうつ病の人たちもあずかっています。農園に来て土いじりをするとみんな元気になる、子どもはなごやかになって思いやりをもつようになると言います。8反の畑と2.5反の田んぼはすべて体験用とのことでした。山の木の落ち葉から堆肥をつくり、米作りをとおしてしめ縄作りも体験します。何でも手作りするのが狙い、昔からの農家の知恵をつたえていきたいと話してくれました。3世代が収穫後交流できるように協同調理場ももうけてあります。援農や一般のボランティアさんも多く、みなさん、おしゃべりやお茶を楽しみに来てくれるそうです。

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高台にある石坂さんの畑で説明を聞く
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「三世代農園」の看板
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畑の中にある休憩所。ボランテイアの皆さん、ここでお茶を飲むのが楽しみとか。
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石坂家の納戸。昔の農具も大切に保管されている。

★同じく日野市の川名桂さんは、全国の女性就農者第1号です。
東京大学農学部卒。「農業こそ人の生きる原点」と、生産緑地2反を借りて農業を始めました。長くやっていく決意で30年の賃貸借です。
今は週の半分は清瀬の農家で勉強中、半分を日野の畑ですごします。20品種、40品目以上の栽培です。自販機もおいて、週1回、金曜日に販売している野菜たちは、ご近所から頼りにされ、レストランや居酒屋からもオファーがあるそうです。将来は東京都の補助金でハウスを建ててトマトに挑戦したいと話してくれました。
農家の後継者や担い手不足が言われる中で、まだ20代の彼女の挑戦には大きな期待が寄せられています。
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川名さん。近くに中央道が見える。
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川名さんの畑の看板
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金曜日だけ開く川名さんの野菜の自販機

◆11月29日、中曽根康弘元総理大臣がなくなりました。
『知の木々舎』創刊間もないころ、虎ノ門の世界平和研究所に、著書『自省録』の転載の許可をお願いにあがったことがあります。中曽根さんの事務所の当時の事務局次長がその昔、全学連の闘士で、砂川闘争の応援に立川に来ていた、『知の木々舎』の顧問、鈴木茂夫氏がその砂川闘争を取材する立場で、彼をよく知っていたという縁で、アポがとれたのです。 

『知の木々舎」の名の由来をきかれ、武蔵野の地から知を発信したいと応じると、中曽根さんにとって、武蔵野はロンヤスと呼び合ったレーガン大統領を迎えた日の出山荘を意味します。たいそう懐かしがって会話が弾み、30分はあっというまにすぎました。『自省録』を『知の木々舎』に転載することについて、思いがけず「それは光栄です。」という言葉がかえってきました。
部屋を出るともう次の訪問客が待っていました。既に90歳を超えていたにもかかわらず、午前中、2時間の会議をこなし、午後には30分きざみのインタビューをうけるというスケジュールで、そのエネルギーに驚いた記憶があります。夏には自筆の暑中見舞いが届きました。
                                             
上記のようなことを月次報告に書いていたところ、友人から、彼女が務めていた社団法人の会長から聞いた話として、こんなエピソードがよせられました。
戦争中内務省の下に大きな地下防空壕が作られていて、高級官僚や軍人たち200人くらいを収容できるエレベーターがあったとか。ただ乗る順番があって、安全な下の方には、既に偉くなっていた人達、上層の地表に近く爆撃に晒される危険性の高い方には若い軍人達が入ることになっていたとか。これに中曽根氏が異議を唱え、若手達を前に、「ジイさんどもは先が短いのだから、上に入るべき、若手の命をこそ守るべき」と檄を飛ばしていたということです。
彼女は、小泉総裁に「定年」を宣告される直前、度し難い重鎮という感じだったが、若い頃にはしっかりと“活動家”をやっていたみたいだと感想をくれました。
ご冥福をお祈りします。


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