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西洋美術研究家が語る「日本美術は面白い」 №23 [文芸美術の森]

                              シリーズ≪琳派の魅力≫

            美術ナリスト  斎藤陽一

          第23回:  尾形光琳「紅白梅図屏風」 その4
(18世紀前半.二曲一双.各156×172.2cm.国宝.熱海・MOA美術館)

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≪月夜に香る梅の花≫

 尾形光琳の晩年の作である「紅白梅図屏風」の大きな魅力は、右隻と左隻の境目で分断して描かれた「黒い川」が生み出すものなのですが、この「黒い川」に使われた技法については、これまでにいくつかの説が提示されてきました。
 現在では、次のような複雑な手順を踏んでいる、とされています。(下図参照)
 
 先ず、膨らんだ川の面全体に「銀箔」を貼る。
 次に、「礬水(どうさ)」(※)で波の文様を描く。
       ※礬水とは、膠(にかわ)と明礬(みょうばん)を熱湯で煮てから
        冷やした溶液。吸水性が弱く、水や上に塗ったものをはじく。
 次には、川の面全体を酸化させる。すると、銀地そのままの部分は酸化して黒っぽく変色するが、礬水(どうさ)で描いた部分は硫黄をはじくので、この部分は酸化せずに波の文様が銀色のままに残る・・・

 何と「黒い川」は、わざわざ意図的に酸化して、銀箔を黒く変化させ、波の文様の銀色だけが残るようにした、と言うのです。
 (MOA美術館編『光琳ART・光琳と現代美術』:角川学芸出版。及び、根津美術館『尾形光琳300年忌記念特別展「燕子花と紅白梅・光琳デザインの秘密」』図録。)

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 現在は、「波の文様」は変色して茶褐色になっていますが、描かれた当初は、黒い川の上に波が銀色に輝き、金地とのコントラストをなして、きわめて斬新な美しさを発揮していたことが想像されます。

 わざわざこのような手の込んだやり方をしたところに、既に光琳が「燕子花図屏風」でやった「型紙」の効果的な使用と同様、工芸や染織の手法(この場合は「マスキング」)を屏風絵に応用した独創性と、理知的な造形感覚を見ることが出来るでしょう。

 では、なぜこのような複雑なことをやったのでしょうか?

 それは、この画面で、月こそ描かれていませんが、“月のある夜”を表現したかったからだと考えられます。元来、大和絵の世界では、「夜」や「月光」を象徴するのに「銀」を使うと言う伝統がありました。
さらには、光悦は一歩踏み込んで、左右の紅白梅と、銀色にきらめく波によって、“月夜に薫る梅の情趣”を表現したのだ、と思われます。


≪暗香疎影≫

 この玄妙な屏風絵の主題については、さまざまなことが言われてきましたが、今日、有力な見方となっているのは、中国・北宋時代の詩人・林和靖(りんなせい)の詩に由来するのではないか、ということです。それは、次のような漢詩です。

       「山園小梅」  林和靖(りんなせい)

 疎影(えい)は横斜(おうしゃ)して水清浅(せいせん)    
            葉もまばらな梅の枝が横や斜めに伸びて
            浅く清らかな水に影を落としている
 暗香(あんこう)は浮動(ふどう)して月黄昏(こうこん)    
            たそがれどきのおぼろな月あかりの中
            梅の香がほのかに漂っている

 この詩は、わが国でも、鎌倉時代から文人や禅僧などによく知られており、水墨画で梅を描くとき、「暗香疎影(あんこうそえい)」という文言は合言葉になっていたそうです。

 ここで、光琳の弟・尾形乾山のことについて、ちょっと触れておきます。
 光琳は、5歳年下の弟・乾山とは、たいへん仲が良く、乾山が陶芸家になった時には、光琳が陶器に絵を描き、そこに乾山が詩を書くということをしばしばやっています。乾山は真面目な勉強家で、漢詩の世界にも通じていたと言われます。
 とすれば、乾山を通じて、光琳もまた林和靖のこの詩を知っていたと考えられます。

 したがって、このような見方をすれば、「紅白梅図」で光琳が表現したかったのは、金地で“黄昏時の淡い光”を、黒い川と銀色の波で“月光のきらめき”であり、そのような玄妙な薄暗がりに漂う“梅の香り”ではなかったでしょうか。
 
 この絵をもっと理解するためには、日本における「梅の花」の鑑賞方法がどのような変遷をたどったのか、を知っておいた方がよいと思いますので、次回に、そのことを話すことにします。


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