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バルタンの呟き №63 [雑木林の四季]

「そうなんですね」

                映画監督  飯島敏弘

令和元年の年の瀬が迫ってきました。もう、先月の初めごろから、新聞、雑誌から、郵便受けに投げ込んで行くDM、散らし広告まで、おせち料理の広告が氾濫していましたから、みなさん改めて特別な感慨を持たれることはないとおっしゃるかもしれませんが、85歳を過ぎても入れます、という保険広告を見た時に、ふと、脳裡に浮かんだのが、米寿という言葉です。

驚いたことに、昭和7年生まれの僕は、来年の誕生日がくると、なんと、米寿という事になるではありませんか。人生百年時代と言われる昨今ですから、取り立てて云々することではないかもありませんが、米寿、というと、なにか、縁側の陽だまりに、褞袍(どてら)だか掻(かい)巻(まき)だか綿入りのいまどき見かけない着物にくるまって、もぐもぐ口を動かしている姿を思い浮かべてしまって、自分とはまるで縁のない光景が思い浮かんでしまうのです。

先日、ある会合で、同世代の友人にそう言うと、
「違うだろう、誕生日を待たなくとも、年が明ければ、米寿だろ」
と返されました。
「そういうものは、古来、数え年でというのがきまりだろう」
というのです。
「いや、昭和、平成が終り、令和となったこの時代に、もう、数え年なんてものは通用しないだろう。令和二年の秋までは、八十七歳だから」
「理屈じゃあ、そうだけどさ。慣習としては、数え年でいうからね」
「違うだろう。だいいち、われわれ昭和のこども世代は、なにかにつけて、明治大正までの慣習を、実用一点張りに改めさせられた世代じゃないか。漢字も、仮名づかいも、算盤の玉の数も、尺貫法も、万事、実用的に改めさせられた世代だろう。満年齢だって、その一つじゃないか。第一、君だって、満年齢で定年になっただろう」
「いや、公にはその通りだが、祝い事は、昔からの数えでやるもんだ」
友人は、頑として引きません。

そうなのです。漢字、仮名づかいなどは、文部省制定の均一の教科書で、画一的に教え込まれて順応したのですが、年齢に関しては、公の物はすべて満年齢で統一されているのに、いまだに、祝い事その他民俗的なものは、満年齢と数え年の基準があいまいのまま、現在に到っているのです。
「八十八と書くから、米の字になぞらえて米寿、九十九と書くから卆の字で卒寿。満年齢じゃあないか」
「公(おおやけ)が決めたから、その通りだというなら、ローマ字の綴りは、どうなんだ。いま、一般的に通用するのは、ヘボン博士の決めたヘボン式の綴りだろう。無理に理屈づけたような文部省式の綴りは、ほとんど見かけないじゃないか」
負けず嫌いの友人の説法は、ローマ字のヘボン式綴りと文部省式綴りにまで及んで、さらにその先には、侃侃諤諤(かんかんがくがく)、喧々囂囂(けんけんごうごう) 喧々諤々(けんけんがくがく)、の誤用と、止まるところを知りません。

最近は、僕が顔を出すどの集まりも老人ばかりになって、以前は辟易するほど聞かされたゴルフの話しだの、息子や娘の話しはおろか、すでに行き来も薄れたのか、孫自慢も出なくなり、病気と食べ物の話しばかりになってしまったので、さらに延々と続いたこの友人の話は、むしろ、近ごろ急激に茫洋とし始めた僕の脳内を、ブラッシュアップしてくれたのです。

閑話休題、老化と言えば、最近の、NHK地上波テレビ放送は、まるで老化したように、朝っぱらから食べ物の話と、病気の話しばかりですね。返す刀で斬りつけるようですが、ニュース番組での、背景だの、漫画風の絵看板だの、小道具だの、CGだのの使いっぷりは何でしょう。 まるで、婆さんが、豆を噛んで、孫の口に含めるようなあり様じゃありませんか。

天気予報にしても、あんなにごちゃごちゃ雲だの雨だの風だの、漫画チックな画を使う必要があるのでしょうか。ニュースでさえそうです。全ての人にわかりやすく、という趣旨でしょうけれども、なにか、視聴者を小ばかにしているような気もします。もっとも、近ごろ叱られてばかりいる官庁までが、人気番組の「チコちゃんに叱られる」のキャラクターを起用しているのですから、仕方がないかもしれませんが。

実を申し上げると、米寿を迎えようという僕は、最近の新聞雑誌を賑わせている、身辺の整理、断捨離、遺言、相続の終活、つまり終りを括るのではなく、終りを活かす活動の意味での終活として、初めて小説を書いたのですが、僕たちの少し前の世代が受けた尋常小学校、中学校、高等学校の充実した教養教育、特に、和漢の語彙の豊富さを、つくづく羨望したものです。自己の努力不足を棚上げした物言いかもしれませんが、僕たち国民学校世代の教育は、戦争遂行の為の国策に振り回されて、実に貧困なものでした。そのコンプレックスを抱きつつも、昨今の国会中継を見ていると、これが、この国を背負っている政治家なのだろうかと、実に嘆かわしくなってしまうのです。

どんな質問にも、「全力をつくして、確りと、スピード感を持って・・・」としか首相が答えないからと言って、他の閣僚までが、「全力を尽くして、確りと、スピード感をもって」と、唱えることはないじゃありませんか。
自分の言葉で答えて、「すぐに、ちゃんと」やればいいのです。
「大丈夫です」が、「要りません」の意味に使われる飲食店のマニュアルと同じに、「確りと」は、そのうちに「やらなくていい」という意味で使われるようになるかもしれません。
これを、昔の人は、「お題目」と言いましたね。言葉に含みがあって、しかも、ちゃんと、鋭く言い当てているのです。

新天皇の即位に当たって、皇居前に集まった大群衆が、リーダーの声に合わせて数十回も両手を挙げて、万歳を繰り返し続ける情景、わが街角の人気カレー料理店に並んだ、高校生や大学生らしき青年たちが、まるで、同じ髪切りやの同じ職人に刈られたようなおかっぱ頭で、前髪を垂らしている情景、タピオカが、あんなにたくさん採れるのだろうか、と原産地が心配になるほどに、行列してストローを咥えている女性たち、そして、なにか話せば、かならず、「そうなんですね」と、いかにも、もうその話は知っている、という風に答える人々・・・

SDGsが手遅れにならないうちに立ちあがろうと叫ぶ少女グレタさんの言葉にも、バチカンから訪れて、ナガサキ、ヒロシマを訪れ、核兵器の廃絶」「原子力発電廃止」を厳しく説いたバチカンのフランシス教皇の言葉にも、「そうなんですね」というだけで、膨大な二酸化炭素排出と電力消費で行われるオリンピックと、過剰な経済活動が生み出し続ける戦争に備える軍事費はじめ次世代負担の国家負債の膨張にブレーキ破損のまま狂奔する日本・・・

「ぼーっとしてるんじゃないよ!」


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