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対話随想余滴 №26 [核無き世界をめざして]

余滴26 中山士朗から関千枝子様

                 作家  中山士朗

 はじめに、二つばかり報告事項があります。
 最初は、私たちの『往復書簡』の朗読会が、この十一月一日から大分県立図書館で開かれるという知らせがありました。これまで、内田はつみさんが由布市で絵本の朗読をしている人を集めて、朗読会を開いておられましたが、このたび『往復書簡』第一巻の関さんの「まえがき」を内田さんが読み、そのあと順次、二時間かけて交代で朗読がなされるそうです。そして、次回からは県立図書館でということになったようです。
 内田さんは作詞家でもあり、イベントの演出などもされています。出会いは、プランゲ文庫に、旧制広島一中の文芸誌に私の「風鈴」という随筆が載っていたことが発端ですが、朗読会で『往復書簡』を読むということは、戦争を知らない世代の人たちに、戦争とは何か、原爆とは何かを知ってもらうための勉強であり、また、大人としての教育でもあると内田さんは語っています。
   次は。我が家の温泉が出なくなったことを報告いたしましたが、その後温泉組合の方から連絡があり、少しずらして温泉を採掘したところ温泉が出ることが判明したとの報告がありました。しかし、新しく採掘するに際しては、所轄の官庁への申請手続きに、利用者全員の賛成として、それぞれの印鑑証明、住民票、議事録を提出しなければならないとの連絡がありました。しかし、書類が受理されても、審査に時間がかかり、来年の三月になってようやく温泉が使えるとこことでした。この採掘には、一千万円ほどの費用が掛かるようですが、積立金の残で処理できるとのことでした。温泉のある終の棲家で余生を送るという、私の夢がかなえられ、人安心しております。
 このように民間の温泉利用が厳しくなる一方で、ホテルが一棟百五十五室の増設をして温泉を多量に使用するという現状に、何ら制限措置が取られていない矛盾を感じずにはおられません。のっけから変な話になってしまい申し訳ありません。
 このたびのお手紙、「あまり長いので、少しちぢめようと思っていますが‥‥」という断り書きがありましたが、非常に楽しく読ませて頂きました。そして関さんの自由自在の文章に敬服しました。  
 ことに、主治医の小松大悟先生との術後のユーモラスな会話を中心に、私たち被爆者の高齢化した者の入浴に苦労する様子や、辰濃文庫訪問の際の話は、その文章に吸い込まれ、さすが新聞記者だった人の文章だと感心いたしました。
 殊に、辰濃さんが二万冊に及ぶ蔵書の多くに、筋を引いて読んでおられるという事実に、私は辰濃さんの誠実さを感ずるとともに、私のエッセイスト・クラブ賞の受賞式で、選考委員長として私の文章を褒めて下さったことが、思い出されてなりません。
 関さんが私たちの往復書簡で辰濃さんのことについて思いを取り交わしたその部分が、思いがけず本になった(『対話随想』)を贈呈するために、不自由な身体を推して辰濃文庫を訪れられたことを知り、頭が下がる思いです。
 そこで、私の『原爆亭折ふし』を発見され、「選考の時は、クラブで買った本で読むので筋をつけるはずはなく、きれいな本なので、選考が終わってから自分で買い求められたのかしら、とみますと小さな付箋が貼ってある箇所を見つけました。それは「水」の部分でした。これが、何を意味するのか私にはわかりかねますが」と書いておられますので、私自身、あらためて「水」を読み直した次第です。
 その終わりの部分で、
<私の家では、夜寝る前に薬缶に水が一杯入っているかどうか確かめることにしている。いつなんどき不慮の事態が発生するかもしれない、という危惧の念からである。それというのも、私に原爆の被爆体験があるからかもしれない。水を一杯飲めば死んでも本望、とその直後に思った。死者のすべてが、最後に天に向かって水を求めた。その声が今も私の耳に残っていて、あの時、腹いっぱい水を飲ませてやりたかったと思う。
 人間が死に臨んで訴えるのは水である。その貴重な水が、洗車のために惜しげもなく使用されている光景に出会うと、何となく気持ちがふさいでくる。ましてや、天然の水が缶や壜に詰められて販売される時代になってくると、人類の文化が進歩しているのか、それとも退歩しているのか、まったく分からなくなってくる。>
 と書いているのですが、この部分をご覧になったのではないでしょうか。ここまで書いてきた時、辰濃さんの温顔が偲ばれてきました。
 話を元に戻します。最近私たちの「往復書簡」を読んだ人たちから、関さんを「行動する人」として賞賛する声が多くなったように感じております。
 そして、最後に原ひろ子さんの訃報に、八十五歳、老衰とあったことに触れておられましたが、私もその記事を読みながら(最近では、新聞の訃報記事は必ず目を通し、亡くなった人の年齢、病名などを丹念に拾っております)、八十五歳の死は老衰なのかと思っていたところでした。
 そして、関さんが小松先生との会話の後で、「老婆は一日にしてならず」とうそぶかれる場面を想起し、私も、「老爺は一日にしてならず」とうそぶいた次第であります。
 それにしても、戦時中に中学生だった私たちは、人生二十年、お国のために、散ってこそ男子の本懐と教えられたものでした。けれども、私は、被爆しながら八十八の今日までよく生きたものだと思います。やがて十一月になりますが、すると私は八十九歳になり、ますます老爺として老けていかねばなりません。関さんの「八十八になる老衰せず、認知症にもならず。大事に一日一日生きなければと思います」の言葉通り、残された時間を大事に生きなければと思います。
 本論にもどりますが、私たちの「往復書簡」も、二〇一二年から始めて七年になります。その間、四冊の本にまとめることができましたが、読者から筆者の生活の匂いが感じられないという声もありましたが、私たちはそれぞれの私生活を語ることなく、対話して参りました。
 ところが、最近になってその後も交信をつづけております余滴では、関さんが大腿骨骨折で入院されたことをきっかけに、互いの日常生活に触れるようになり、互いをいっそう理解できるようになったのではないかと思っております。たまたま入浴時の難儀な話から始まったことなのですが、高齢化した被爆者の実態を伝えるものにもなったのではないかと思っております。
 そして、最後に四〇〇勝をはじめ、球界でのすべての記録をもつ故・金田正一さんについて書かれた文章に触れますと、改めて能楽をはじめとする、関さんの多様性の世界に触れたような気持ちでした。


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