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コーセーだから №57 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」  18

              (株)コーセーOB  北原 保

各紙写真入で紹介
大学出の採用も始める

全国コーセー会誕生

 コーセーが急激に頭角をあらわした昭和25年、小売業界のリーダーたちの共鳴のもとに古奈(伊豆長岡温泉)の三養荘で、〝コーセー会全国連盟結成式〟を開いたが、戦後はじめての催しとして壮観であった。祭典も会議方式で、学究的で盛りあがったものだった。業界紙はこぞって「さながら全国小売業者の祭典」とか「コーセー社長の炭鉱節」と書きたて写真入りで紹介した。
 そのころの化粧品業界の大物といえば資生堂の松本昇氏、メヌマの井田友平氏、パピリオの伊藤栄氏という顔ぶれをはじめ有名メーカーの首脳がそろっていた。この中には政界に籍をおく人もいるが、この催しをどう見ていたか、このコーセー会が将来も大きく発展すると考えていたかどうか。それもそのはず、コーセー化粧品の当時の従業員はたった50人ほどだったからだ。
 資本や社員数が少ないとすぐに下に見たがるのが日本人の企業に対する考え方だが、松下電器の松下幸之助氏はうまいことをいっている。
 まだ、戦後の松下が中小企業に毛が生えた規模だったころ、「中小企業とは」という質問に対して「これから大企業になる企業や」と答えた。企業を資本や規模で判断するなということなのだ。事実、松下は十有余年で巨大企業にのし上がった。
 コーセー化粧品が地区コーセー会と全国コーセー会の小売店の組織を軸に業界の中で着実に成長して化粧品業界の五指に数えられるようになると、資生堂やカネボウはコーセー会をまね、全国大会までやっているそうだ。が、コーセーの小林社長のいう〝血の通った〟関係はなかなか。
 小林社長はコーセー会の懇談会がはじまると、500人の小売店主の端から、酒のお酌をしてまわる。一周するのに2、3時間はかかるが、K社やS社の社長が小売店主のお酌をしてまわるなんて考えも及ばないことだろう。
 「社長は自分が苦労してあみ出したことだからウソで無く素直にできる人ですよ。マネた上っつらだけの笑顔じゃできないことですよ」
 聰三専務は〝血が通う〟とはどういうことかを説明する。早い話、コーセーの化粧品についても同じことがいえる。小林社長は創業の精神に「優秀な商品をつくる」ことをうたっているが、昭和26年に発売された「パーライトスキン」というクリームは、コーセー化粧品のベストセラーだった。いまも当時と同じ価格で製造販売されているそうだ。(昭和44年現在)
 「パーライトスキン」は、当時、旭電化から入社した八森雄三(元取締役東京工場長)が開発したレモン色のクリーム。このクリームは当時のコーセーのドル箱といわれた。
 「いまは売れば売れるほど損になるんですが、これでなければという愛用者の方がいまして、サービスのつもりでずっと製造していますよ」
 コーセーの社員は誇りをもってその商品を推薦する。「パーライトスキン」というクリームに小林社長の人間味がうかがえる。化粧品業界の中で、いち早く大学出を採用した(資生堂をのぞく)のもコーセー化粧品である。もちろん〝人材育成〟は小林社長の創業の精神のひとつだが、創業まもない頃から毎年多くの大学出を採用した。
 「なぜって、東洋堂時代に私は小学校の高等科卒ですが、周囲の人はみな蔵前の工業専門学校を出た優秀な人ばかりでした。やはり、大学でのいい人材をとっていかなければ、将来いい化粧品本舗になれないと考えましたね。だから人が不景気で見向きもしないときにせっせと優秀な人を積極的に採用しました。制度品メーカーいがいは、商売を問屋にまかせているので、それほど人が必要ではなかったようです。実は物より人が大切、人間が物をつくり出すんですよ」(小林社長)コーセーはいまや中堅幹部以上は大学でが活躍しているが、小林社長は経営者として20年前にこの日を予測していたのだ。
                                        (日本工業新聞 昭和44年10月29日付)

(注)
●資生堂の松本昇氏  昭和15(1940)年に資生堂の第二代目社長に就任。大正時代に百貨店経営を学ぶためにニューヨーク大学に留学。そこで、後に株式会社資生堂の初代社長となる福原信三氏(彼も香粧品学を学ぶために留学していた)と出会い資生堂に誘われる。
●メヌマの井田友平氏  メヌマポマードの創始者。井田両国堂の初代社長・井田幸八郎氏の兄。井田両国堂は当初、友平氏がつくったポマードを販売するために幸八郎氏が作った。友平氏は衆議院議員も務めた。
●パピリオの伊藤栄氏  三代目伊藤栄氏のこと。初代伊藤栄氏はパリで学んだ化学者・長谷部仲彦氏と組んで胡蝶園を明治37(1904)年に創業。日本で初めての純無鉛白粉『御園白粉』を発売。その後、伊藤胡蝶園に改称。明治44(1911)年に初代栄氏が死去したため長男・健吉氏が二代目伊藤栄と改名。三代目栄氏は昭和4(1929)年に社長就任。戦後の昭和23(1948)年には株式会社パピリオに改称。パピリオは胡蝶・あげは蝶の学名からつけられた。1948年には帝人に買収され帝人パピリオに、以後→1987年にアサヒペン→1990年ツムラが買収しツムラ化粧品株式会社に改称→1997年会社を解消→2004年ピアスがパピリオの商標権のみを取得し、新たなパピリオ株式会社を設立。
*一部に現在では不適切と思われる表現もあるが、内容の性質上原文のまま表記した。


55 コーセー全国連盟.jpg
三養荘で行われたコーセー会全国連盟結成式の模様
55スキンケア商品.jpg
1950年代前半の代表的スキンケア商品。右手前の商品がパーライトスキン
55 パーライトスキン広告.jpg
パーライトスキン発売当時の新聞広告

                                                            

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