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西洋美術研究家が語る「日本美術は面白い」 №22 [文芸美術の森]

            シリーズ≪琳派の魅力≫

           美術ナリスト  斎藤陽一

第22回:  尾形光琳「紅白梅図屏風」 その3
(18世紀前半.二曲一双.各156×172.2cm.国宝。熱海・MOA美術館)


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≪黒い川の秘密≫

 前回は、尾形光琳の「紅白梅図屏風」に描かれた梅の木には、写実的な「具象」(幹)と、デザイン化した「抽象」(花)が併存していることを見ました。

 今回は、尾形光琳の「紅白梅図屏風」の中央に、大きく末広がりに描かれている「黒い川」に注目してみましょう。

 この部分で何よりも目を引き付けるのは「水流」の表現です。いわゆる「光琳波」です。
 このような波は、自然界ではあり得ませんね。これは、ゆるやかに流れる水の複雑な動きをとらえて、大胆に「抽象化した文様」なのです。その文様も一様ではなく、光琳は描線に、太い細い、あるいは、速い遅いという緩急の動き、渦巻文様の描き分けなど、さまざまに変化をつけています。

 川の姿もまた、思い切ったデフォルメと抽象化により、大胆に膨らんだ曲線でかたどられている。このような仕掛けによって、この絵には、非現実的で、幻想的な味わいが生まれています。流行りのことばで言えば「シュールな絵」とでも言えるでしょう。

 このように、この屏風全体では、白梅・紅梅という写実的な「具象」と、黒い川というデフォルメされた「抽象」との対比が、意図的に行われていることが見て取れます。

≪共存する複数の視点≫

 この絵の中の「視点」についても注目したいと思います。

 よく見ると、「紅梅・白梅」は正面・横から捉えているのに対して、「黒い川」は上から見下ろす「俯瞰ショット」でとらえていることに気が付きます。
 つまり、同一画面に「複数の視点」が共存しているのです。これは、西洋では近代になってセザンヌが試み、20世紀になってピカソが「キュビスム」の主要な手法として使った「視点の移動」という西洋絵画の革新のひとつなのですが、日本美術では古くから自在に行われてきたやり方です。
たとえば「源氏物語絵巻」では、人物は正面・横向きでとらえ、室内は、屋根や襖を取り払って上から見下ろす「俯瞰構図」で描いています。
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ピカソ「ヴォラール氏」
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「源氏物語絵巻」(平安時代末期。徳川美術館)

 
ところが、合理主義を基盤に持つ西洋絵画では、こうは行きません。高い所から見下ろしてそこに屋根が見えるなら屋根を描かねばならない、屋根で隠れている室内の人間を、  ピカソ「ヴォラール氏」
見えもしないはずなのに描くことなど出来ない、おまけに、上から見ているのに人物だけを横からの視点で描くなんてとんでもないこと・・・これが合理主義の呪縛です。
伝統的な西洋絵画では、ひとつの絵画空間には一つの視点というのが鉄則、つまり画家の視点というものを最優先させるのです。(下図参照)

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ところが日本絵画では、対象を見つめる主体(画家)よりも、描かれる対象(客体)のほうを尊重しますから、それぞれの対象にふさわしい視点が採用され、この結果、ひとつの画面の中に、いくつでも「複数の視点」が共存するのです。融通無碍というべきか、実に柔軟なのです。
これは「日本文化の多元性」にも及ぶ思考形態なのですが、ここではこのくらいにしておきます。

かつて、このような東西の視覚的特質の違いを私に教えてくれたのは、大学時代の恩師、高階秀爾先生です。このような指摘は、東西のさまざまな文化現象の違いを考えるときの大きな示唆ともなりました。(高階秀爾著『日本人にとって美しさとは何か』:筑摩書房、及び『日本美術を見る眼~東と西の出会い』:岩波書店、ほか)

 ともあれ、このように見ると、この屏風絵は、≪「紅梅白梅」の具象表現と「黒い川」の抽象表現≫との対比だけでなく、「視点の違い」による梅の木と黒い川との対比を目論んでいることも分かります。

 この結果、現実と非現実がせめぎ合い、凛とした緊張感が生まれているのみならず、夢か現(うつつ)か心もとない夢幻的情感が醸し出されているのです。この「黒い川」の存在は、それほどの効果をもたらしています。

 次回は、尾形光琳がこの「紅白梅図」でどのような情景を表現しようとしたのか、見ていこうと思います。


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