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対話随想余滴 №25 [核無き世界をめざして]

余滴25  関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子

 私、慌て者でとんでもない読み違いをしていたようです。中山さんのお宅の温泉が出なくなって、洗面台の前に椅子を置き、シャワーを浴びると書いておられたので、浴槽に入れず、シャワーだけかと思い、それでは風邪をひいてしまう、大変だと、深刻に心配してしまいました。浴槽にはふつうのお湯なら出て、浴槽で身体を暖めることはできるのですね、安心しました。もちろん、日常的に温泉に入るのが素敵だと思われ、別府住まいを考えられた中山さんにとっては残念でしょうが。
 中山さんの方も思い違いがあるようです。私が浴槽に入れないのでシャワーを浴びているように思われているようですが、旅行先のホテルでは浴槽に入れないのでシャワーを浴びるしかないが、私の泊る安ホテルでは浴槽の外ではシャワーが使えず浴槽の中に入ってシャワーを浴びるしかない。浴槽に入れるかどうか心配だったのですが、うまくまたげて入れ、難関をクリアしたと申し上げたのです。
 私は浴槽に入っています。大腿骨骨折後の状況では、普通の浴槽では、浴槽が深すぎては入れず、もし入れたとしても、出ることは困難です。これは「手すり」くらいではどうにもなりません。我が家の浴槽は、もう十年くらい前に、「高齢者用」の対策は全部してもらっていまして浴槽も手すりがつけてあります。しかし、大腿骨骨折の場合、手すりや浴槽外シャワーチェアーくらいではどうにもなりません。私の場合、ボード方式でやっています。
 浴槽にボード(台)を置き、それに身体を乗せ、足をあげながら浴槽方面に移し、浴槽に入ります。浴槽に入れたらボードを外しボードとセットになっている小さな椅子(あらかじめ浴槽内に入れておきます)に腰かけ身体を暖めます。出るときまたボードを浴槽のふちにかけ、体を乗せ、足を持ち上げながら浴槽の外にでます。浴槽内の椅子など昔は考えたこともなかったのですが、浴槽に入り腰を下ろしてしまうと、浴槽の外に出られないのです。けがの前は想像もつかなかったことでした。旅行のときは、ボードや浴槽内椅子を持っていくことは不可能ですので(かなり重いです)、ホテルではシャワーということになったのです。
 大腿骨骨折の説明など中山さんには関係ないことを長々と書いて申し訳ありません。今、順調に生活しています。歩行はまだ杖だけではパワーがたりないので杖とサイドカートと両方使っていますが、退院した頃より倍くらい早く歩けるようになりました。これでバス、電車、新幹線、すべてOKうまくいっています。靴下をはくときもそれ専用の仕掛け(器具?)があるのですが、それなしでも穿けるようになりましたし、一番すごいのは、これは一生だめ、皮膚科医に切ってもらいなさいと生活治療士に言われた足の爪切りができるようになったことです。とにかく日々できることが増えるのはうれしく、介護ヘルパーさんに週一度来てもらっていますが、私のできないこと、浴槽の掃除、トイレの奥の方の掃除だけをしてもらっています。
私がしっかり外出しているのを危ながる人もいますが、外出してある程度歩く方が健康上もよろしいようです。私が大腿骨骨折したので家に閉じこもりきりになると心配していた人は、がっかりしている?ようですが。
 これだけ元気になっているのは、手術してくださった先生のおかげで、よき先生にめぐり合えたことを感謝しています。
 我が主治医・小松大悟先生は、三月一日私が転倒した時の晩、新宿メディカルセンター(昔の厚生年金病院)の救急センターの当直でした。この日私は友人の息子さんのピアノコンサートに行っていたのですが、もとより転倒など思いもよらぬこと。会場に近いこの病院に救急車で担ぎ込まれたのですが、大腿骨骨折など夢にも思いませんでした。
 即入院となり、翌朝小松先生が来られ、当直をしていた私があなたの手術をすることになった。手術は三月七日と言われました。その時、私はまだ事の重大さが判らず、困ったと思いました。三月五日から八日まで日程が込んでいて、特に三月八日は国際女性デーで、神奈川の大会での講演することになっており、女性デー関係の会は久し振りで張り切っていたのです。どうしても行かなければならない会がある、七日の手術を遅らすわけにはいきませんか、と頼んだのです。先生は呆れてしまい、どうやって行くのですか?「車椅子にのり車で‥‥」、と言いましたら先生ますます呆れて、「不可能ですよ。今のあなたの状態では車いすに乗るのも無理、寝台車でも乗せるのは三人がかりですよ。」こんな問答をしているうちでも、ちょっと体を動かしても痛い。身動きできない状況ということがだんだんわかってきて、結局、「あきらめる」ことにしたのですが。
 でも、小松先生はこの騒ぎで、私のことを「変な患者」と思われたのでしょう。病院に娘が来た時、手術の説明をしてくださったのですが、従来の手術では術後、前かがみが不可能で、普通の生活は無理。大きな人工関節を入れる。これだとかなり前屈もできる。手術が大変だから皆、あまりこれをやりたがらないのだが、何しろ、元気な患者さんだから。というふうな説明でした。この整形の病室、女性の高齢者ばかりですが、小松先生いわく、元気のない人ばかりで、私のような元気な年寄りは珍しい。だからあなたには、この人工関節で手術したい、というふうなお話でした、娘も、はあ、元気だけは保証します、みたいなこと言っていましたが。
 でも私、今、この先生にめぐりあってよかったと思っています。前屈ができないのは不便で、床の物を拾うこともできない、髪を洗うのに美容院方式の仰向けでなければだめ、大変です。歩くのも、今のようにはいかないと思います。
 この先生、言いたい放題言われてとても面白い方です。術後、回診に来られて「元気ですか」、と聞かれるので、元気ですと、大いに元気を誇示しますと「あなたね、十年前だったら、あのくらい転んだところで大腿骨骨折はしませんよ」「それはつまり元気ぶってもババアはババアということですか?」「まあそういうこと」で大笑いです。八七歳はババアには違いないので,「老婆は一日にしてならず」なんて威張っていますが。
 退院後の検診の時、レントゲン写真で、手術の個所を見ましたが、大きな人工関節でびっくりしました。ずいぶん立派ですねと感心。記念にとお願いして、レントゲン写真を頂いてしまいました。病院からの資料を読み返してみても、要するに大腿骨骨折というのは痛みをとるための物のようです。認知症でも、年取ってやる気が全くない人でも、痛みは感じるから何とかしなければなりません。しかし、これでは一人暮らしは無理、よほど家族の介護がいいか、それがだめなら、施設に行くしかないでしょう。
 とにかく、一人暮らしでなんとかなり、これだけ活動できるのは、小松先生とめぐり合え、よい手術方法をとっていただいたためで、私は運が良かったと思います。退院後検診でも先生がまず言われるのは「元気?ちゃんと仕事してる?」「してます、金が入らないから仕事と言えないかもしれないけど」「ボランティア?」「ボランティアではないけれど」「つまり活動しているわけですね?」ということで、先生がどのくらい私のやっていることの中身を察しておられるかわかりませんが、やる気があって「大ババア」になっても「活動」しようとする者には、できる限りのことをしてやろうというお気持ちなのだろうと思い感謝です。私に使われている人工関節と同じものを見せていただきましたが、大きくてびっくり。あれが私の体の中に入っていると思うと、うーん、です。

 ごめんなさい、つまらないことばかり書いてしまいました。
 九月二四日,辰濃和男文庫に行ってまいりました。朝日新聞のもと天声人語氏、辰濃さんが亡くなられてもう二年です。私たちの往復書簡でも辰濃さんのことについて思いを取り交わした。その部分の書簡が思いがけず本になった(対話随想)。その本を差し上げなければと思っていた今年二月、朝日新聞東京版で思いがけず、辰濃文庫のことを知ったのです。その記事で辰濃さんが亡くなられてから、辰濃さんの家は取り壊され、奥様は施設に入られた、そのとき、たくさんの書籍をどうするか困ったが、辰濃さんの友人の佐藤清さんの手で、東松山市(埼玉県)の古い蔵を改造した家に収納され、辰濃文庫となっていることを知りました。佐藤清さんに電話し、もう少し暖かくなったら行きますと言っていた、その矢先、私が骨折してしまったのです。三カ月病院に塩漬けになり、退院して佐藤さんに連絡しなければと思ったのですが、取りおいていたはずの新聞の記事がどこに行ったかなかなか見当たらず、困ってしまい、結局図書館で二月の朝日新聞を探して、佐藤さんの電話番号を見つけ、連絡しました。
 遅くなった訳を話し、お詫びし八月に丸木美術館に行けたので、大丈夫行けそうです、といったのですが、東松山駅まで車で迎えに行ってあげるといわれます。お言葉に甘えることにしました。
 車で十数分かかりました。森の中のようなところに、古い建物があり、「エコビレッジ東松山」という家です。自然の中でお茶を飲んだり食事をしたりという所らしく、食事を作られているのは佐藤夫人で、筋金入りベジタリアンです。
 佐藤さんは建築家です。建築家でも障害者の建築とか、そういうことに興味を持つ、少々変わった建築家です。こんな方ですから辰濃さんと仲が良かったらしいです。
本好きの辰濃さんは、蔵書が2万冊にもなり家が傾くというか扉の開けたてが難しくなったので、佐藤さんが家を直してあげたのだそうです。
 辰濃さんが亡くなられてからまず困ったのが二万冊の本、そこで佐藤さんが思いついたのがこの「エコビレッジ」の主屋の傍に立っている蔵、これも本当に古いものですが、この蔵に少し手を入れて文庫にしようという案でした。
 蔵の中に入ってみますと壁にぎっしりと書棚、本の山。佐藤さんが辰濃さんのご長男と相談し、適当に種分けして並べたけれども、ということでした。ここにあるのは一万冊くらい、まだ整理がつかなくて、藏の屋根裏部分に置いてあるのもあり、ご長男が処分されたものもあり、ということでした。
 とにかく辰濃さんは本をよく読んだ。自分で買ったものだけではなく人にもらったものもあるでしょうが、読まずにそのままということがない人だったようです。それに本を読むと筋をつけて読む人で…と佐藤さんが言っておられましたが、本当に本を開けて見ます行の脇に筋をつけてあるところがいっぱいあります。精読されたと言う事でしょうね。
 私の『広島第二県女二年西組』もありました!第一版です。開けて見たら、筋がいっぱいあってうれしくなりました。この本は辰濃さんの「天声人語」に取り上げられ、それで大変よく売れたのですが、辰濃さんは筋をひきながら、どの部分を、あの短いコラムに活かすか考えておられたのだと思うと胸が熱くなりました。
 中山さんの『原爆亭折ふし』も見つけました。これがエッセイストクラブの賞の候補になった時、辰濃さんはもう「天声人語」を卒業、クラブの理事長で、賞の選考委員もされていたはずです。選考の時はクラブで買った本で読むので、筋はつけるはずはありません。きれいな本なので、選考が終わってから自分で買い求められたのかしら、とみますと小さな付箋が貼ってある箇所を見つけました。それは「水」の部分でした。これが何を意味するのか私にはわかりかねますが。
 辰濃さんの本は多種多様、間口が広いのですが、水上勉の本が多いのが目立ちました。辰濃さんと仲がよかったようです。本田勝一さんとか、朝日の記者の作品もたくさんありました。もちろん、辰濃さんらしく、自然に関する本もいっぱいありました。
 そうそう、この日のいちばんの目的は「対話随想」の贈呈です。二冊持っていきました。辰濃さんのことを書いた個所には付箋をつけておきました。一冊は佐藤さんが辰濃夫人に差し上げてくださるそうで、もう一冊は多分辰濃文庫においてくださると思いますが。
 とにかく藏は風情がありますが、不便な森の中、人がそう来るわけではなさそうです。佐藤さんのお話では朝日の若い記者や割合近所に住んでいるに日経の記者は来てくれたが、地域の方はあまり関心がないようで、と少し残念そうでした。東武東上線の東松山の先にある小川町の女性の図書館員が来て、図書館のニュースに書いてくださったそうです。小川町の図書館はなかなかユニークで、和紙の町らしい風情もありとても素敵な女性図書館員がおられました。あの方が来られたのかしら、など想像してしまいました。
でも、数多くの人が来るということではなさそうで、少し残念ではあります。でも、かく言う私も、この後この文庫に二度と来る機会があるかどうか。何しろ我が家から三時間余りかかりますから。
 お腹がすいたので佐藤夫人手作りの食事を食べました。本格的なベジタブル食、大変おいしかったです。でも、このエコビレッジも、そんなに多くの人が来るとは思えません。佐藤夫妻の「思い」の場のようで、その中に辰濃さんの本が生き残っているようです。

 ここまで書いてまた長すぎて余滴25はこれで終わりにしようと思ったら、テレビで金田正一の死を報じていました。かねやん、わが世代の英雄、寂しく思いながら、あれだけ元気、身体能力抜群、そして健康にもひどく気を使っていた人が死ぬ、私より若いくせに!、人にはやはり寿命というものがあるものかと思って、新聞を広げたら原ひろ子さんの死(10月7日)が報じられていました。女性学に詳しく御茶ノ水女子大のジェンダー研究所の所長もした方です。八十五歳、老衰。彼女こんなに若かったの!老衰とは何!

 私も中山さんも生かされているのかもしれません。八十八になり老衰せず、認知症にもならず。大事に一日一日生きないと、と思います。

 ここまで書いて、後はまたゆるゆると思っていましたら台風19号のあの大被害です。次の号で書くことになるかもしれません。


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