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立川陸軍飛行場と日本・アジア №184 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

鹿屋・立川間無着陸飛行 東京競馬場の馬場開き

            近現代史研究家  楢崎茂彌
 
   陸軍大臣、東京府の高等女学校に感謝状
  12月14日に、陸軍恤兵部(じゅつへいぶ:慰問・慰問袋などを管理する部門)が、慰問金品寄贈に対して陸軍大臣が次のような感謝状を出すことを提案しています。“感謝状  今次の事変に際し傷痍軍人並びに出征将兵の慰問に大に力められ殊に慰問袋調製に当たり援助せられたるを多とし茲に感謝の意を表す  昭和八年十二月 陸軍大臣 荒木貞夫” 。感謝状の予算は、恤兵金の利子から出すとしています(連載NO.168で紹介したように、慰問袋にはお金も入れたのです)。陸軍恤兵部の会計担当はなかなかシッカリしていますね。感謝状は東京府の高等女学校82校、国防婦人会137分会に贈られました。もちろん、大正14(1925)年創立の立川高等女学校も含まれています。
 こうした動きを知ってか、「東京日日新聞・府下版」(1933.12.7)は、府立第四高等女学校(現・南多摩184-1.jpg中等教育学校)の女生徒が心を込めて作った満州出動中の将兵向けの慰問袋780個が陸軍省に届けられたことを報じています。僕はこの記事にやや違和感を持ちました。先日、立川の町を探訪した時に、立川女子高校は、村井敬民先生が女子教育の必要を感じて創立した多摩で初めての女子校だと説明を受けていたからです(立川女子高校のHPにも多摩最初の女子校と書かれています)。それなら、立川女学校の子が作った慰問袋の記事を載せるべきですよね。
 調べてみると、東京府立第四高女は明治184-2.jpg41(1908)年の創立で、多摩で一番古い女学校でした。連載NO.48で紹介したように、立川村は明治34(1901)年に、八王子には花柳街があるが立川にはないとして、府立第二中等学校の誘致に成功しています。だから、高等女学校は八王子に開校したのは妥当な線だったと思います。それはともかく、HPの記載について立川女子高校に問い合わせてみると「私立では初めての女子校という意味です」と説明されました。村井氏が自らの信念に基づいて女子校を創立したのは偉いと思います。でも、第四高女が一番古いのだから、この写真でよろしい。
   
    22才のイケメン川上伍長、鹿屋・立川間無着陸飛行に挑戦
  飛行第五連隊は、立川・旭川間約930kmの無着陸飛行には何度も成功していますが、今度は野戦想定下に於ける自力長距離西日本縦断飛行に挑戦する事になりました。
  “野戦想定下”とは、飛行場に着陸しても給油は行なわない・地上勤務者は一切手を貸さない、すべてを空中勤務者が自力で行ない目的地まで飛行することを意味します。これは陸軍の偵察機では初めての企画です。使用する飛行機は八八式偵察機2機、往路は立川・明野・大阪・広島を経由して大刀洗に一泊します。翌日は、福岡県の大刀洗から鹿児島県鹿屋に飛び、鹿屋からは四国南方海上を飛び、遠州灘から浜松上空を経て立川に無着陸で帰還する航路をとります。全行程は2360km、鹿屋から立川までは約929kmで旭川までと変わりませんが、陸上ではなく太平洋上を飛ぶので不時着はできません。
 184-3.jpg操縦を任されたのが、藤森少尉と若干22才の川上伍長でした。イケメンの川上伍長は5月に所沢飛行学校を卒業したばかり、先輩を凌ぐ操縦技術を持っていたために選ばれました。伍長は“先輩を擱いてこの大飛行に参加することはこの上もない光栄です、神にかけてまた連隊の名誉のために成功を期します”と決意を語りました。(「読売新聞・三多摩読売」1933.11.25)
  12月1日、立川は朝から雨、一時は中止かと思われましたが、箱根以西は好天なので決行と決まり、まず9時には川上伍長が操縦する629号機、10時には藤森少尉が操縦する638号機が飛び立ち、夕刻には大刀洗に無事到着しました。翌2日には、両機とも搭乗員が交替し鹿屋に飛び、鹿屋からは無着陸飛行を行い、4時間5分で立川陸軍飛行場に帰ってきました。新聞は“驚異的短時間翔破に成功した”と報じています。
  野戦想定下のせいなのでしょうか、2360kmという長距離飛行を行なった2機の八八式偵察機は、たった一日休養しただけで、12月4日には同じコースで2次飛行に飛び立ちました。翌5日、手塚特務曹長が操縦する629号機は9時10分に鹿屋から飛び立ち午後1時27分に立川に到着します。入田中尉が操縦する638号機は鹿屋着陸時に上翼の下部が破れます。それでも入田中尉と偵察員として同乗する半谷特務曹長が針と糸で素早く補修しました。地上勤務者は手伝ってはいけないのですね。638号機は10時40分には鹿屋を飛び立ち、午後3時に立川に到着しました。両機とも4時間5分には及びませんでしたが、連隊長から“極めて良好”とのお褒めの言葉をもらい面目をほどこしました。
  海軍機とは違って、陸軍機は洋上を長距離飛ぶことはないので、この訓練飛行は不時着が不可能な敵地上空を飛ぶことを想定したものだったと考えられます。
 
  オリンピックのゴールド・メダリストが東京競馬場の馬場開き
  昭和8(1938)年11月8日、東京競馬場の竣工式が行われました。目黒競馬場が手狭になったために、350万円の巨費を投じて北多摩郡府中町に24万坪の競馬場を新設したのです(目黒区下目黒には、元競馬場という信号と、元競馬場前というバス停があります)。
 千余人の来賓を迎え、型どおりに式が終わると、オリンピックのゴールド・メダリスト西竹一大尉が指揮する184-4.jpg陸軍騎兵学校教官たちが騎乗する駿馬7頭が颯爽と登場し、スタンドから一斉に拍手が送られました。連載NO.153では、ウッカリ西竹一少佐と書きましたが、階級が下がるわけがありませんよね。当時は“西竹一騎兵中尉”です。オリンピックのフィナーレを飾る大賞典障害飛越個人に出場したもう一人が今村騎兵少佐だったので混同してしまいました、申しわけありません。
  7頭の馬は、生け垣、水濠など11の障害を鮮やかに飛び越え、観衆を魅了しました。妙技を披露した後、西大尉は“大変よい馬場だと思う。今日乗った馬は八才の純国産馬「盛北」で、今度のオリムピックはこれで出る考えだ。馬も純日本産でなければ面白くないと思う」と語っています(「東京日日新聞・府下版」1933.11.9)。しかし、西大尉はベルリン大会でも、ロサンジェルス大会と同様に盟友ウラヌスに騎乗しています。
  東京競馬場のレース初日は11月18日、新馬場だけに番狂わせが続出しますが、第10レースで、一頭の馬が木柵に脚をとられて転倒、折れた木柵が脇腹に刺さり背中に貫通し射殺されました。
 
  競馬に負けて、八つ当たり泥棒に急変
  12月8日午前10時頃、南多摩郡町田町で大きな花束を風呂敷に包んで歩く男を、警察官が不審に思い署に連行します。男は7日に戸塚競馬で負け、帰りに近所でリヤカーを盗み、そのあとに盗んだ花束を積み、町田まで来て盗んだリヤカーを2円で売り払ったのです。花束を持って歩かなければ不審に思われなかったのに…。競馬というギャンブルが犯罪を誘発する一例ですが、アメリカの業者を喜ばせるだけのカジノの行く末が案じられます。
 
 <休載のお知らせ>
  復帰して、またすぐ休載で申し訳ありませんが、年末の診断次第で目の手術を受けなければならないようです。今も片目をつぶってパソコンを打っている情けない有様です。そんなわけで、しばらくお休みをいただきます。

写真1番目 村井敬民先生像        筆者撮影       2019.3.15
写真2番目 詰め込まれた心尽くしの慰問袋「東京日日新聞・府下版」1933.12.7
写真3番目 川上伍長         「読売新聞・三多摩読売」 1933.11.25
写真4番目 馬上左から二人目が西大尉  「東京日日新聞・府下版」1933.11.9


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