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検証 公団居住60年 №44 [雑木林の四季]

第3章 中曽根「民活」―地価バブルのなかの公団住宅 4

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

4.住宅公団の「建て替え」事業者手

 政財界は、第1次行革審の最終答申が端的にしめすように、公団住宅の廃止、用地の売却を露骨に要求し、その方向にむけての家賃くりかえし値上げ、建て替え促進をとなえた。丸山良仁公団総裁はこの動きにあわせ、行革審答申をまたず早々と1985年10月に建て替えを今後の公団事業の柱にし、年間1万戸ぐらいのペースで進めたいと紙上インタビューで語り、86年5月に着手を正式発表した。住棟を高層化・立体化して売却敷地をつくり出すのがねらいであつた。住都公団は「住宅の表看板を下ろし、入札前の国鉄用地などを生地する(地ならし請負業〉への転身を迫られている」と新聞報道された直後の87年3月10日に、丸山総裁は経団連の常任理事会に出席して財界への土地高級を約束している。

 公団は昭和50年代に建設した賃貸住宅のうち約16万戸を対象に、原則として年代の古いものから、概ね20年をかけて順次建て替えを実施すると発表し、目的は、①敷地の適正利用、②居住水準の向上であると説明した。建設省はすでに84年にこの方針を決定しており、85年度予算に調査費をくみ、86年度予算で建て替え制度の創設と、首都圏、関西圏各1団地の事業着手を計上していた。これにより同年5月に川崎市・小杉御殿団地(56年建設、280戸)と大阪市・臨港第2団地(56年建設、257戸)において建て替え事業の第1回居住者説明会をおこなった。
 住都公団が「建て替え」を突如いいだしたのは1985年、公団住宅の第1号は1956年建設だからまだ30年しかたっていない。その間増築や改修、団地環境再整備はありえても、建て替えなど思いもよらなかった。住宅の償却期間70年が確かな耐用年数とはいえないまでも、まだその半分も経過していない。にわかに中曽根民活の嵐が吹き荒れ、築後30年たらずの鉄筋コンクリート住宅も一瞬にして「老朽化」のレッテルが貼られ、建て替えを迫られることになった。
 昭和30年代(1956~朗年度)に管理開始された公団の賃貸住宅は約17万戸、多くは立地条件のよい市街地にあり、法定容積率にたいする現況充足率が低いことに目をつけて、政財界は土地の高度利用を名目にいっせいに建て替え促進を大合唱した。
 83年2月の臨時行政調査会「行政改革に関する第4次答申」にはじまり、85年6月の住宅宅地審議会報告「新しい住宅事情に対応する住宅・宅地政策に基本的体系について」、86年3月の閣議決定「第5期住宅建設5カ年計画」とつづき、同年6月の行革審答申「今後における行財政改革の基本方向」は「土地の高度利用、居住水準の向上等を図る観点から既存賃貸住宅の建替え・立体化を積極的に推進する」「建替えの円滑な実施に資するため、必要な法制上の整備につき検討する」ことを打ちだした。
 家賃値上げはルールなしの強行だったが、建て替えも「必要な法制上の整備」のないままの突入だった。


『検証 公団居住60年』 東信堂


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