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浜田山通信 №254 [雑木林の四季]

「この広い野原いっぱい」と「神田川」

             ジャーナリスト  野村勝美

 脚が痛いので散歩もままならず、毎日テレビばかり見ている。10日の日曜日は、即位パレードがあるというのでどの局も関連ニュースばかりだ。私は青春真っ盛りの旧制中学時代、2年生のときから工場動員にかりだされ、零戦のプロペラ削りをさせられた。これはジュラルミンの長さ1.5mの板をカンナでプロペラ状に削るもので重労働だ。おまけに空襲に遭い、家は丸焼け、命からがら逃げた。雨あられと降ってくる焼夷弾によくも当たらなかったものだ。
 戦後しばらくして天皇巡幸が始まり、わが郷里福井の焼け野原にも「ああそう」の昭和天皇がソフト帽を振り上げながら来た頃は私も天皇制反対にかたむいていた。以来昭和天皇に好意を持ったことはなく、いずれまた天皇を利用せんとする権力者が現れるからこの制度はやめるべきだと思ってきた。
 台風19号で東日本のあちこちで100人近くの人が死に、洪水で家屋敷、田畑、山林がメチャメチャになり、ボランティア頼みの復興支援は一向に進んでいない。いやはっきりいっていまの時代にあれだけの天災を乗り切れる被災者はよほど恵まれた人たちだろう。若い人や働き盛りの人も大部分が都会に出ている。義援金はそうとう集まるだろうが、つぶれた家を建て直してくれるはずがない。
  こんな時になんで即位パレードか。私は番組表を探した。NHKBSプレミアムが「南こうせつサマーピクニック」をやっていた。再放送だろうが、私には絶好の番組だった。森山良子が「この広い野原いっぱい」を歌った。彼女のデビュー曲で作詞は小薗江圭子。森山良子は若いころ、銀座の画材屋のウインドーに「この広い野原いっぱい咲く花を/ひとつ残らずあなたにあげる/赤いリボンの花束にして」の詩が掲げられているのを見つけた。彼女はこの詩、作曲してもいいですかと店の主人にきくといいですよの返事。自分で曲をつけて売り出すと大当たりとなり、作詞が小薗江さんと判った。
 私は毎日新聞を退社したあと妻のやっていたおもちゃ屋を引き継ぎ、のちに2Fを改装して画廊にした。しかし素人の悲しさ、困っている時、毎日グラフで記者をしていた渡辺ゆきえさんが貸してくださいと言ってきた。彼女は『暮しの手帖』で花森安治、藤城清治と並ぶ装画家だったし、高田敏子、増田れい子、清川妙らの著作の表紙絵なども描いていた。私は「画廊経営なんて大変ですよ」といいながら渡りに船とばかりに貸すことにした。そして画廊の第一回が「小薗江圭子作品展」だった。渡まゆというのが渡辺さんのもう一つのペンネームだったが、もうひとり詩人、童話作家の工藤直子の3人が若い頃からの友人で「入れ歯の会」というグループを作り、年をとったら渋谷か原宿あたりでなんでも屋をやろうと話し合っていたという。小薗江さんも器用な人で絵も描くし、アップリケなども作っていて「いいものや」と名づけたアトリエは大にぎわいだった。  (この項つづく)

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