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医史跡を巡る旅 №65 [雑木林の四季]

「西洋医学事始・美作の蘭学」

                保健衛生監視員  小川 優

美作(みまさか)というのは、津山を含む岡山県北部の古い呼び名です。津山藩医を中心として、幕末期美作に広く蘭学が広まります。前回は、江戸の蘭学を、津山藩医の面々が担っていたというお話をしました。
宇田川三代は津山藩医とはいえ、三人が三人とも、もともと津山の出身ではなく、さらに実質活動したのは江戸でした。幕末となると参勤交代も有名無実となり、多くの藩主が国元よりも江戸表で暮らすことが多かったからのようです。一方で国元に帰って私塾を開いたわけではなく、津山に直接貢献してないのではと考えがちですが、それは間違いです。江戸に当藩にゆかりの偉い先生がいる、となれば、向学心に燃える津山出身の若者は学術修行にあたり彼らを頼ります。そして、国に帰った若者はまた彼らの教えを広める、こうして知の連鎖がつながり、津山、そして美作の蘭学が盛んになっていきます。そんな若者の一人が、箕作阮甫です。

津山の箕作貞固はもともと町医者でしたが、天明2年(1782)に津山藩医に取り立てられます。貞固の第3子として生まれたのが阮甫です。

「箕作阮甫像」
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「箕作阮甫像」 ~岡山県津山市大谷 津山駅北口

岡山駅から快速列車で1時間と少し、津山駅北口に降り立つと、駅前のロータリーの銅像が目に入ります。箕作阮甫が初めて江戸に旅立つ姿を像にしたものです。

駅前はいかにも開発途中の態で(2019年現在)、あたりも寂しい感じですが、それもそのはず津山も多くの城下町と同じく、津山駅と町の中心地とが離れています。城の周り、あるいは街道沿いに発達した古くからの街の住人は、新しい交通手段としての「鉄道」をあまり好ましく思わなかったようです。津山の場合は、駅と城下町は吉井川という大きな川で隔てられています。津山駅を降りて橋を渡り、小性町、京町という由緒を感じる町を通り過ぎると旧出雲街道があります。右に曲がり街道沿いに東に歩くと、鍵手に道が曲がる場所がいくつかあり、敵に攻められたときに守りやすくするという城下町らしい工夫を体感じます。しばらく歩くと旧出雲街道に面して、箕作阮甫の生まれ育った家があります。昭和51年に阮甫の時代の状態に復元されました。その隣が津山洋学資料館です。

「箕作阮甫旧宅」
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「箕作阮甫旧宅」 ~岡山県津山市西新町

箕作阮甫
寛政11年(1799)、津山藩医の家に生まれる。兄が夭折したため家督を継ぐこととなり、文化13年(1812)京都の漢蘭折衷医師、竹中文輔に医術を学ぶ。津山に戻り開業するが、文政6年(1823)藩主松平斉孝の供として江戸に赴き、宇田川玄真に師事、蘭学を学ぶ。一旦津山に帰郷するが、江戸詰を命じられ再び江戸へ。天保10年(1839)には日本最初の医学誌といわれる「泰西名醫彙講」を出版、医学書のみならず、語学、工学など広範囲な著述がある。幕府の天文方で翻訳に当たり、嘉永6年(1853)には川路聖謨らに随行して、長崎で対露交渉に当たり、同年黒船で来航したペリーとの交渉において、外交文書の翻訳を行う。安政3年(1856)蕃所調所の教授となりのちに旗本に取り立てられる。また安政5年には伊東玄朴らとともに、お玉が池種痘所の設立にかかわる。文久3年、江戸湯島天神で亡くなる。65歳。

「箕作阮甫墓」
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「箕作阮甫墓」 ~東京都府中市多磨町 多磨霊園

阮甫は妻、登井の間に三女をもうけ、いずれも呉黄石、箕作愁坪、箕作省吾と名だたる学者と結婚したほか、子孫も統計学者の呉文聡、医史学者の呉秀三、動物学者の箕作佳吉らと学者を輩出しています。

「箕作阮甫像」
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「箕作阮甫像」 ~岡山県津山市西新町 津山洋学資料館

箕作阮甫と同じく、宇田川玄真に師事した岡山県足守出身の蘭学者に緒方洪庵がいます。緒方洪庵と適塾については、これまでも何回も話に出てきました。緒方洪庵についてはあまりにも記載することが多いので、章を変えて、いずれ詳しく取り上げたいと思います。

宇田川家は玄随、玄真、榕菴の三代が別格扱いで有名ですが、榕菴に後継ぎがなかったため、養子となって宇田川家を継いだ興斎がおり、いわば最後の藩医を勤めています。

「宇田川興斎墓」
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「宇田川興斎墓」 ~岡山県津山市西寺町 泰安寺

宇田川興斎
文政4年(1821)、美濃大垣の医師飯沼悠斎の子として生まれる。宇田川榕菴に学び、のちに養子となり宇田川家を継ぐ。幕府天文方の一員として箕作阮甫とともにアメリカ、ロシアとの交渉時の翻訳に携わる。その後幕府より蕃所調所への出仕の打診があったが、すでに多くの蘭学者を津山藩から出仕させていて、藩内の蘭医がいなくなることから、藩の意向で断らざるを得なかった。その後も最後の藩医として、後述の久原洪哉とともに藩主夫人の乳がん治療にあたり、また長州征伐に参戦したりと、幕末の激動の時代に翻弄される。明治5年、藩医の任を解かれ、家族で東京に移り住む。明治20年、67歳で亡くなる。

宇田川家、箕作家と同じく津山藩医の家柄であった久原家も、蘭方医学に関わりました。久原家は延宝5年(1677)、幕府医官西玄甫から「阿蘭陀流外科医術免許状」を授かった家柄で、宝永5年(1708)から津山藩医として召し抱えられていました。箕作阮甫より25年くらい後に生まれた久原洪哉は、9代目そして最後の津山藩医の一人として、藩主夫人儀姫の乳がん手術を行います。

「久原洪哉墓」
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「久原洪哉墓」 ~岡山県津山市西寺町 長安寺

久原洪哉
宗甫と号する。文政8年(1825)、岡山県北部の鏡野町の医師難波周造の長男として生まれる。天保14年(1743)京都で西洋医学や蘭学を学ぶ。この時同じく京都で遊学していた久原家嫡男の久原宗哲と知り合い親交を結ぶが、宗哲が嘉永5年(1852)に急遽、この縁で久原家の養子となる。その後大阪、華岡南洋のもとで華岡流外科を学ぶ。津山に帰ってからは、種痘の普及に努める。長州征伐への従軍、維新前後は藩主に供して江戸、大阪、京都へ赴くなど、忙しい日々を送る。特筆すべきは明治3年(1870)、宇田川興斎らとともに藩主夫人儀姫(のりひめ)の乳がん治療に当たり、手紙によるイギリス人医師ウイリアム・ウイリスの助言をうけて、患部摘出手術に成功する。また明治12年(1879)のコレラ流行の際には、拡大防止に奔走する。明治29年(1896)、71歳で亡くなる。なお長男躬弦は、京都帝国大学総長も勤めた化学者。

岡山から津山に至る路線は、非電化単線で山間を走ります。快速は1時間程度ですが、普通列車では2時間近くかかります。幕末、江戸はもちろん、京都、大阪から遠く、山々に隔てられた美作津山の地で、当時最先端の蘭学、洋学が盛んになったのは一見不思議に感じますが、人と人との繫がりは距離も、道の険しさも超えるものなのだなぁと思いました。




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A.AKECHI

 呉秀三先生を「医史学者」とされたのには違和感を覚えます。先生の功績は、日本医史学会の創設よりも日本における近代精神医学の旗揚げの方がずっと大きいものがあると思います。 機会があれば映画「夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年」https://www.kyosaren.or.jp/yoakemae/をご覧下さい。
by A.AKECHI (2019-11-21 10:38) 

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