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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №6 [文芸美術の森]

第三章  帝大学生時代から戦後まで 1

        早稲田学名誉教授  川崎 浹

恩賜の銀時計を辞退して画家の道へ


 大学三、四年生の時に高嶋弥寿は特待生になった。
 森鴎外は、官立学校の特待生で幅を利かせているような人の中には、試験に高点をとって、昇進ばかりをねらう者がいると批判した。弥寿はむしろ反対のタイプで、在学中にも絵を措く余裕をもっていた。ただ学問と両立させねばならなかったので、絵に集中はできなかった。卒業後の助手時代にも外の学校に非常勤で手伝いにゆくとか、或いはそういう将来が待ち受けている生活が見えてくるにつれ、いよいよ二者択一をせまられる。師弟の
義理もからむなかで、画家への道を踏みだすには「大決心を要しただろう。
 教授たちも将来の後継者と思い定めていた学究のとつぜんの変心に驚いて引きとめ、野十郎が慕う長兄の宇朗も「家庭ももてなくなるぞ」と翻意をうながしたが、その段階で野十郎は生涯独身でもかまわないぐらいの気持ちでいたと思われる。
 大正五年(一九一六)、野十郎は二十六歳で、東京帝大水産学科を首席で卒業。魚の感覚に関する研究を行っていた。また卒業時に授与の候補に挙がっていた恩賜の銀時計を辞退した。これで引くに引けぬエリートコースへの退路をたち、同時に栄誉心もかなぐりすて、画業に専念するしかない道を選んだことになる。
 しかし、野十郎より二歳年下の岸田劉生はすでに名をなし、前年、野十郎より三歳年下の中川一政や同じく木村荘八らと草土社を創設していた。ここで《道路と土手と塀(切通之写生)》が出品されるが、ありきたりの風景を見る者をして捻らしめる作品に仕上げる劉生の早熟の才能を弥寿はどう思っただろうか。
 さらにその前年(大正三年)には弥寿の二歳年長の梅原龍三郎が、同世代の石井柏亭や津田青楓、有島生馬らとともに「文展」に反旗をひるがえし二科会を創立している。安井曾太郎も梅原と同年生まれで、すでに長年の滞欧を経験し、弥寿の大学卒業の二年前に帰国、その翌年大正四年(一九一五)に二科展で滞欧作品四十四点を展示する。やはり弥寿卒業の年、かれより七歳も若かった東郷育児が、新しく結成された東京フィルハーモニー
の指揮者、ドイツ帰りの山田耕作と知り合い、楽屋をアトリエ代わりに使うことを勧められ、ここで描いた絵を日比谷美術館で展覧している。

青春の謎 1

 美術学校出身で環境や留学の資金にも恵まれた画家たちに比べると、水棲圏科学研究の分野でこそ将来を属目された秀才高嶋弥寿も、ひとつ道筋をずらすと陽の当たらぬ半端な画学生である。焦りと悩みと反撥を経験したにちがいない。在学中に二十四歳で措かれたと考えられている《傷を負った自画像》がある。
  私は《傷を負った自画像》を目にしたとき、野十郎の青春の謎がとけたと思った。これほど露骨な自己表現はない。自画像は一般に攻撃的でドラマティックな自己表出になりやすいという。この絵は《絡子をかけたる自画像》や《りんごを手にした自画像》よりはるかに攻撃的で、それは攻撃の最も衝撃的な反作用である敗北、攻撃の裏返しとしての敗北の形で露出されている。ある意味でこれほど醜く攻撃的かつ顕示欲の激しい自画像を私は見たことがない。野十郎が生存中だったらこの自画像の展示に同意したかどうか。
 はだけた着物姿で、立て膝の右すねに右の手を当て、惟悼しきった虚ろな眼差しはこちらを見ているようで、実はわずかに逸れている。左首と右のすねに傷口とそこから流れる一筋の血。右手の指にも擦傷か打撲痕跡らしいものがある。鼻血の塊らしきものがあり、下唇も割れている。
 私は傷口を見て、矢で射られた殉教者の聖セバスチアンを連想し、野十郎が当時の自分を擬したのではないかと思ったが、西本匡伸氏も聖セバスチアンの名をあげ、「絵に対する殉教」の姿勢を示していると見る。興味ぶかいのは、当時の野十郎の性格とエピソードを甥の力郎から聞いたうえで、多田茂治氏が《傷を負った自画像》を、実際にだれかと喧嘩して傷つき、それをまっすぐみつめながら描き、そこから虚飾をはいでおのれの正体、
醜さ、夜叉の顔を一筆、一筆塗り重ねていったとしていることである。
 《傷を負った自画像》はコンプレックスや迷いや絶望感をはらんでいるが、それは肖像画の主人公が特待生で通した専門の分野以外の、他の領域で生じたことだろう。そのなかには絵画に専念できないことや、画家として遅れを取っている懸念や焦燥がなかっただろうか。(この項続く)

『過激な隠遁 高島野十郎伝』 求龍堂

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