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医史跡を巡る旅 №58 [雑木林の四季]

「博愛精神のルーツをたどる・日本赤十字社病院と看護教育」

            保険衛星監視員  小川 優

赤十字活動の起こりは、戦時における敵味方区別のない傷病者の救護です。19世紀後半から20世紀にかけては戦争の時代、大きな戦いが次から次へと発生しました。日本が関係したものだけでも慶応4年(1868)戊辰戦争、明治10年(1877)西南戦争、明治27年(1894)日清戦争、明治39年(1904)日露戦争、大正3年(1914)第一次世界大戦と、ほぼ10年おきに戦争が起こっています。赤十字が活躍する機会はたびたびあったわけですが、とはいえ戦争の度に要員と物資を確保していたのでは、追いつきません。平時から準備し、要員を育成する必要が生じます。

明治17年(1884)、第3回赤十字国際会議にオブザーバーとして出席した陸軍軍医総監橋本綱常は、帰国後の報告の中で救護員、特に女性救護員の養成を目指して、赤十字の運営する病院を設立することを提唱します。

「橋本綱常墓」
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「橋本綱常墓」 ~東京都港区西麻布二丁目 長谷寺

弘化2年(1845)、越前福井藩で藩医を勤める橋本家の四男として生まれる。長兄は幕末の思想家で、安政の大獄で処刑された橋本左内。藩医は父長綱から左内が一旦引き継ぐが、左内が御書院番に任じられたため、代わって綱常が11歳で引き継ぐ。文久2年(1862)長崎に遊学、オランダ人医師ポンペ、ボードインそして彼らの弟子の松本良順から近代医学を学ぶ。
明治3年(1870)兵部省に出仕、以後陸軍軍医としての道を歩み、軍医監、東京陸軍病院長、陸軍軍医総監、医務局長を歴任。明治5年(1872)から明治10年(1877)にかけてドイツに留学したほか、明治17年(1884)には陸軍卿大山巌に随行して、ジュネーブ条約加盟のための調査で渡欧。帰国後は条約締結、赤十字社発展に尽力する。明治19年(1886)には初代日本赤十字社病院長(就任時は博愛社病院)に就任。
明治21年(1888)医学博士、明治23年(1890)貴族院議員、明治28年(1895)には男爵、明治40年(1907)には子爵に叙される。明治42年(1909)心臓疾患のために逝去、享年65歳。

まだまだ不足していた医療の提供と、救護要員の育成を目的として、明治19年(1886)麹町区飯田町の博愛社本社に併設する形で病院が開設され、橋本綱常が院長となります。翌年の万国赤十字加盟とともに日本赤十字社病院と名を変え、明治23年(1890)からは看護婦生徒の養成が始まります。当時の日本赤十字社病院規則にはこう記されています。

第一条
日本赤十字社病院は、平時に在りては救護員を養成し、戦時に在ては其の全部又は一部を陸海軍傷病者の収容に供す。
第二条
病院は、皇室仁慈の旨を體し、貧困患者を療養し且一般患者を治療す。

飯田町の病院が手狭になったため、看護婦養成を始めた翌年の明治24年(1891)、御料地の払い下げを受けて現在地の渋谷区広尾、当時は豊多摩郡渋谷町下渋谷に移転します。

「日本赤十字社病院正門」
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「日本赤十字社病院正門」 ~絵葉書

広大な病院の敷地は、赤レンガの塀で囲まれていました。病院建て替えに当たり取り壊されましたが、一部がモニュメントとして残されています。

「日赤中央病院 復元レンガ塀」
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「日赤中央病院 復元レンガ塀」 ~東京都渋谷区広尾 日赤医療センター

移転当時は、レンガ造り二階建ての本館と、木造平屋の病室、手術室、附属室を有していました。

「日本赤十字社病院本館」
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「日本赤十字社病院本館」 ~絵葉書

病院はドイツのハイデルベルグ大学病院を模範とする、宮内省技師の片山東熊博士の設計によるものです。本館二階には院長室のほか、皇族の行啓時や外国賓客来訪時のための貴賓室があり、階下には治療器械室、図書室、医員室、事務室がありました。

「日本赤十字社中央病院病棟」
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「日本赤十字社中央病院病棟」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

病棟の一部は明治村に移設され、現在でも見ることができます。下見板張りの清潔感あふれる建物で、採光のために窓を大きくとっているのと、換気通風のために鎧戸、換気塔が備え付けられているのが特徴です。

「日本赤十字社中央病院病棟 廊下」
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「日本赤十字社中央病院病棟 廊下」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

移築に際して方角的に180度向きを変えて設置されたため、この明るい廊下は本来北向きに窓がありました。日照の乏しい北側でも窓を大きくすることで、少しでも明るくしようとする工夫が見られます。

日本赤十字社中央病院病棟 病室」
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「日本赤十字社中央病院病棟 病室」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

自費患者の病室は特等から三等甲・乙まで、五段階に分けられていました。開設当時の病室は57室、111病床であったとされます。

「日本赤十字社病院外来診療所」
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「日本赤十字社病院外来診療所」 ~絵葉書

その後も建物は増築されて、施設は充実していきます。

「日本赤十字社病院外来本館」
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「日本赤十字社病院外来本館」 ~絵葉書

ほぼ建て増し、建て増しで来た赤十字中央病院ですが、昭和51年までに、日赤百年を迎えるにあたって全面的に立て替えられます。このとき病棟の一部が解体、保存され、明治村に移築されました。

「日本赤十字社病院全景」
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「日本赤十字社病院全景」 ~絵葉書

全体が建て替えられる以前の、病院の全景を記録した絵はがきがこちらです。おそらく戦前のものと思われます。近代的な病院外来本館の背後に、明治村にあるのと同じ、平屋の病棟が連なっているのがわかります。

飯田町の旧病院の建物も一部が移築され、看護婦養成所の教場と寄宿舎となり、全寮制の看護婦教育ができるようになります。
看護婦教育に関しては先立つ明治17年(1884)、高木兼寛らが有志共立東京病院(東京慈恵医院)看護婦教員所を開設しています。日本赤十字社看護婦養成所では一年半の修学期間ののちに、二年の実務期間を経験するものですが、その後も二十年間、戦時および災害時の応召義務がありました。

「日本赤十字社救護員」
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「日本赤十字社救護員」 ~日本赤十字社本社情報プラザ展示物

明治27年(1894)の日清戦争以降、戦地には赤十字旗とともに赤十字救護員の姿がありました。こうして国民には、赤十字といえば白衣の天使というイメージが定着していきます。

「殉職救護員慰霊碑・看護婦立像」
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「殉職救護員慰霊碑・看護婦立像」 ~東京都港区芝大門 日本赤十字社本社前庭

一方で戦地は常に危険と隣り合わせ、ジュネーブ条約に守られているとはいえ、紙の条約は銃弾を止める盾とはなりません。救護員養成開始以後、第二次世界大戦の終結までに戦渦に巻き込まれて亡くなった殉職救護員は1,317人。このほかに関東大震災など災害時派遣において殉職した9人を加え、1,326人の名簿と、功績を記した遺芳録とを収めた殉職救護員慰霊碑・看護婦立像が日赤本社の前庭に設置されています。

第二次世界大戦の終結後、養成所は日本赤十字女子専門学校として独立、学制改革により短期大学を経て、日本赤十字看護大学となっています。

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