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多摩のむかし道と伝説の旅 №29 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

              -矢川水辺から谷保田圃へ天神様と為守伝説を巡る道-3

                   原田環爾

29-1.jpg緑地を出て水辺の道を進む。煉瓦敷きで良く整備されている。矢川いこいの広場の横を通り、第六小学校の校庭南側の水辺の小道に入る。季節の頃はみごとな桜風景を見せてくれる。小学校裏を抜けると、畑と民家のあるのどかな風景になる。白鷺がよく飛来する。水辺には赤い鳥居の矢川稲荷明神あり、川の畔には所々農家が野菜を洗う洗い場がある。この辺り古くは川を挟んで右を四軒在家、左を久保と呼んでいた。やがて矢川橋で甲州街道に出る。橋の袂に四軒在家の人達が祀った五智如来の堂宇がある。四軒在家は一般的にはシケンザケと呼ぶ。天正18年(1590)、29-2.jpg八王子城落城の折、北条氏照の家臣4人がこの地に逃げてきて土着。4人の姓は佐藤、佐伯、堀江、原田で、四軒在家の部落名はこの4軒から名付けられた。今も四軒在家には子孫が住んでおり表札が確認できる。特に佐伯姓は多い。郷土史家の原田茂久氏によれば五智如来は、この時の落人4人が建立したという。ただ江戸時代に八王子にいた越後の人が来住して祀ったともいう。五智如来は仏教でいう五種類の智、すなわち大円鏡智、妙観察智、平等性智、成所作智、法界体性智を備えた仏様のことで、大日如来の別名とも言われる。昭和前期まで夕方になると五智如来の前に灯明や線香、供花が絶えなかったといい、現在でも、10月12日には「おこもり」といって、地元の人達が集まって念仏をあげ、五智如来を供養しているという。
 街道を渡ると家並みが川に接して水辺の道はここで一旦途切れる。街道沿いを100m西へ進み、T字路「矢川三丁目」で最近出来た道幅の広い車道を南へ向かうと青柳崖線のまました橋の袂に来る。かつては畑風景に囲まれた狭い野道であったがすっかり様変わりしてしまった。ちなみにここへ至る通りの西側に四軒在家公園とい29-3.jpgう小公園があり、その一角に古墳時代後期7世紀の古墳が1基保存されている。この付近では古墳10基が発掘されており、うち1号墳が整備保存されている。青柳段丘の日当たりと崖線からの水が得られる居住環境として一等地であったのだろう。
 まました橋からは緩やかな下り坂となり田園風景が開ける。橋は丁度青柳崖線の上になっている。このあたり一帯には高さ8m前後の段丘崖が連なる。段丘崖は「はけ」とも「峰」とも呼ばれるが、この地域では「まま」と呼ばれ、ここからの湧水を「ママ下湧水」と呼んでいる。湧水は清水川という細い水路を形成しママ下に沿って流れる。水路の南側は古来多摩川の氾濫原であった低地で、豊富な湧水群により昭和初期まではわさび田が見られたという。ただ近年は道路整備で昔ののどかな景観はすっかり失せてしまった。29-4.jpg青柳崖線と南側を走る中央自動車道の間は、東西に伸びる帯状のどかな田園地帯で、清水川も先の矢川もこの田園の中を流れる府中用水に並んで合流している。合流点は「矢川おんだし」と呼ばれている。合流後の府中用水は透明度はやや落ちるものの水量豊かで素晴らしい田園風景を見せてくれる。そんな田園風景の中にこの辺りがかつて神奈川県に属していたことを示す標石が立っている。神奈川県庁測定石跡で、現物は国立郷土文化館に保存展示されている。
 北側段丘上には石井筆子ゆかりの滝之川学園がある。滝之川学園は明治24年(1891)石井亮一氏によって設立された日本初の知的障害児施設だ。石井筆子は亮一氏の妻で幕末(1861)、肥前大村生まれ。津田梅子とともに近代女子教育の先駆者とされている。先夫との間に3児あり、うち2児が知的障害児であった。
 


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