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多摩のむかし道と伝説の旅 №28 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

-矢川水辺から谷保田圃へ天神様と為守伝説を巡る道-2

                原田環爾

28-1.jpg 時代は下って養和元年(1181)、道武の子道英から六代目の津戸三郎為守が夢のお告げで谷保の現在地に遷座して谷保天満宮を創建した。ちなみに谷保天満宮の本殿の裏には道武を祀る三郎殿がある。当初は社殿の南にあったが火災で焼失したという。
 谷保天満宮を創建した津戸三郎為守とは如何なる人物であったか。多摩川南岸の石田に住み、源氏の武将として18歳で源頼朝が平氏追討で旗揚げした石橋山に参陣している。養和元年(1181)には夢のお告げで天神島の祠を谷保の現在地に遷座し天満宮を創建、初代宮司となった。28-2.jpgちなみに宮司は代々世襲で現在の宮司は第64代津戸最氏である。為守は遷座に併せ別当として安楽寺を中興し、祈祷所として六坊(滝本坊、松本坊、桜井坊、梅本坊、尊住坊、邑盛坊)を置いた。但し現存するのは滝本坊のみで、他はすべて明治初年の神仏分離令で廃寺となってしまっている。その後、武士でありながら浄土宗の開祖法然上人に帰依し法名を尊願を名乗った。おそらく過酷な源平戦の経験が影響したと思われる。なお同時代の武蔵武士で「本朝無双の勇士」と称賛された熊谷次郎直実も出家している。晩年は法然上人の後を追って割腹自殺している。伝説では割腹して五臓六腑を傍らの川に投げ捨てたがすぐには死ねず2か月後に大往生したという。なお為守は割腹した血で故郷の妻子宛に書いた。「為守の血文」と称する文で法然上人作の阿弥陀如来坐像の胎内に納めたという。その血文阿弥陀如来像は元は滝の坊にあったというが現在は谷保天満宮に保管され、滝の坊には「血文の阿弥陀如来石塔」が立っているだけである。ただ血文そのものは今はないという。時代は下って江戸時代に子孫が八王子の大善寺に為守供養塔を造立している。たいへん伝説の多い人物である。
 
 これより、矢川、谷保を実踏した場合に出会う風景、歴史、伝説、エピソードなどを辿った順に解説する。

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 矢川駅を出発し線路沿いに都営団地を見ながら西へ向かう。一番西端の突き当たりは東京女子体育大学の南側で、そこに小さな踏切がある。踏み切りを渡って小さな坂道を下ると橋の袂に出る。橋の下に流れている小川が28-4.jpg矢川である。橋の袂を右に入ると雑木林で覆われた空間がある。それが矢川水源の一つである矢川緑地保全地区だ。近年綺麗に整備されて見事な緑地公園になった。緑地中央を東西に矢川が流れ、中程に湧水池がある。矢川の北側は昔からあった雑木林で、南側は最近整備された湿生植物保全地域になっている。北側は小高い丘で三輪城と呼ぶ中世の城跡があったと言われている。西側はその名を採ったみのわ通りと称する車道になっている。三輪(箕輪)城については、大正13年の北多摩谷保村郷土史によれば、「村の西北端に小高き所あり、矢川として此の所より湧出する小川あり・・・この小岳に近く塚2箇所あり、立派なる人を埋めたるものなりとか、大切なる物を共埋めたるものなりとか伝える所、詳ならず、この小岳に三輪城なるものありて、城主を三輪次郎と言えりと伝う。今は全くその面影なし」とある。28-5.jpgただ裏付ける確証はない。現在の火葬場の東隣の箕輪山光西寺辺りが三輪城のあったところではとの話もある。
 みのわ通りの筋向いには暗渠の矢川から水をひいた“龍神之池”があり、池畔に矢川弁財天が有る。社殿の前には狛犬ならぬ狛蛇が鎮座している。蛇は水の神様であり、湧水池には蛇にまつわる話が多い。「立川のむかし話」によれば、矢川弁財天に関してこんな話が伝わっている。
28-6.jpg いつの頃か、矢川弁財天は荒れ放題になっていた。気味悪い雑草が生い茂り、池の水も暗くよどみ、妖気さえ漂っていた。ある時、立川の修行僧のところに一人の老人が訪ねてきて、矢川弁財天を清めて世に出して欲しいと言う。 そこで老人の案内で弁財天に行くと、荒れ果てて妖気さえ漂う有様に驚いた。 修行僧はよい日を選んで整地にくると約束した。やがて何日か経って修行僧はお手伝いを連れてやってきて、雑草を刈り、石を取り除いて整地を始めた。すると堂守婆さんが飛んできて、「ここは弁天様の棲家じゃ。そんなことし たら後で弁天様の祟りがある。すぐやめれ!」と言った。修行僧は「法要するから心配はいらない」と婆様を納得させた。その夜修行僧が床につくと、高い山から谷底へ突き落される夢を見て目を覚ました。しかし体の自由がききません。必死にもがくうちに大木に捕まることができた。が、何とそれは大蛇だった。これは弁天様が怒っているのだ。修行僧は悪霊を封じる九字の印を切ろうとしたが身動きできません。やがて修行僧は心に閃くものがあった。弁天様は怒っているのではなく何かを訴えておられる。九字の印ではなく相承の印で霊と和合しなければならない。そこで足を組み、相承の祈りに入ると、魔性が霧散し体が自由に動くようになった。修行僧が弁天様と和合できたことで、矢川弁財天は清められた。修行僧は以後3年、矢川弁財天で法要を営んだという。


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