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論語 №74 [心の小径]

二三六 孔子郷党(きょうとう)においては恂恂(しゅんじゅん)如(じょ)たり。言うこと能(あた)わざる者に似たり。その宗廟(そうびょう)朝延に在るや、便便(べんべん)として言う。ただ謹(つつし)むのみ。

              法学者  穂積重遠

 孔子様が郷里家庭におられるときには、恭順(きょうじゅん)質朴(しつぼく)なご様子で、ロクロク口もきき得ないように見える。大廟(たいびょう)や朝廷ではスラスラと物を言われる。ただ言語態度をつつしまれることはもちろんだ。

 郷里や家庭では、長老や目上もいること故、先に立って利口ぶった口をきかないのである。大願や朝廷は儀式や政治の大事な公務の場所だから、言うべきだけのことはハッキリと言う。ただ言葉づかいのていねいなことはもちろんだ。

二三七 朝(ちょう)に下大夫(かたいふ)と言えば侃侃(かんかん)如たり、上大夫と言えば誾誾(きんぎん)如たり、君(きみ)在(いま)せばシュクセキ如たり、与与如たり。

 朝廷で下級の大夫と語るときは、隔意なく打ち解けた様子であり、上席の大夫と語るときはかえってキチンとした中正な態度である。君が朝廷に出ておられる場合にはうやうやしくつつしんで席に安んぜぬようだが、さりとてしゃちこぼるのではなく、ユッタリと落ち着いておられる。

二三九 公門に入れば鞠躬(きっきゅう)如たり。容れられざるが如し。立つに門(しん)に中(ちゅう)せず、行くに閾(しきみ)を履(ふ)まず。位を過ぐれば、色勃如たり、足カクジョたり、その言(ことば)足らざる者に似たり。斉(もすそ)を摂(かか)げて堂に升(のぼ))れば、鞠躬如たり、気を屏(おさ)めて息せざる者に似たり。出でて一等を降(くだ)れば、顔色を逞(はな)ちて怡怡(いい)如たり。階を没(つく)して趨(わし)り進むや翼如たり。その位に復(かえ)ればシュクセキ如たり。

「屏」を「ひそめて」、「逞」を「のべて」とよむ人もある。

 御所の門をはいるときは、中腰をかがめて、いれてもらえないような様子である。ツカツカと大手を振って通ったりしない。門で立ちどまる場合にも、中央に立ちふさがらない。そこは君の通られる所だからである。また門の敷居は踏まずにまたいで通る。敷居を踏むのは無作法だし、あとから来る人の裾をよごすおそれがあるからである。門内に君の立たれる位置があるが、その前を通る時は、それが空席であっても、顔色を変じ足進まざる様子をする。門から堂までの間も、多言せずまた高ばなしせず、口不調法な人のようである。堂にのぼるときは、衣の前を踏んでつまずかぬよう、裾を引き上げ小腰をかがめて階段をのぼるが、息を殺して胡弓もせぬかのようである。御前をさがって階(きざはし)を一段おりると、顔色をやわらげてにこやかになり、階段をおりきると、両袖を翼のごとく張って小走りに席にかえり、うやうやしくひかえておられる。

「その位に復す」を、再び君の空席の前を通る意味に解する人もある。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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