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論語 №73 [心の小径]

二二七 子のたまわく、後生畏(おそ)るペし。いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞ゆるなくんば、これ亦畏るるに足らざるのみ。

                法学者  穂積重遠

「後生」は「先きに生れたる者」に対する「後に生るる者」。『礼記』(内剛篇)に「四十を強という、然り。五十命ぜられて大夫と為り官政に服す。」とある。すなわち身を立て道を行う時である。

 孔子様がおっしゃるよう、「若い者はおそろしい。明日の後進が今日の先輩に及ばぬとどうして言い切れようぞ。しかし四十歳五十歳にもなって善行有能の名が聞えぬようでは、おそるるに足らない。」

 孔子様が若い門人たちを見渡して、その将来を楽しみに思われると同時に、前章にいわゆる「秀でて実らざる」者になりはしないかと心配された言葉であろう。私なども、故山本元帥とご同様「今の若い者は」などとは申せぬ、と感心することがしばしばあるが、同時に「今時の若い者は」と言いたくなることもないではないのは、ヤッパリ年を取ったせいであろうか。

二二八 子のたまわく、法語の言(げん)は能(よ)く従うことなからんや。これを改むるを貴(たっと)しと為す。巽与(そんよ)の言は能く説(よろこ)ぶことなからんや、これを繹(たず)ぬるを貴しと為す。説びて繹ねず、従いて改めず。われ未だこれを如何ともすることなきのみ。

 古註に「法語は正しくこれを言うなり。巽与は婉(えん)にしてこれを導くなり。」とある。「繹」は糸口をたぐり出すこと。

 孔子様がおっしゃるよう、「真正面からの忠告は、イヤと言えぬから。ハイとは言うだろうが、ハイと言っただけではだめで、その忠告をいれて過(あやまち)を改めるのが貴いのである。遠回しの忠告は、耳当たりが良い悦(よろこ)ぶではあろうがその意のあるところを汲み取るのが貴いのである。ハイと言っただけで改めず、悦んだだけで意味がわからない、というようなことでは、わしも何とも手のつけようがない。」

二二九 子のたまわく、忠信を主とし、己に如かざる者を友とするなかれ、過(あやま)ってはすなわち改むるに憚(はばか)ることなかれ

 これは既に前に出ており(八)、重出だから現代語訳ははぶく。おそらく前章の「これを改むるを貴Lと為す」と関連させてここに並べたのだろう。

二三〇 子のたまわく、三軍も帥を奪うペし、匹夫(ひっぷ)も志を奪うペからず。                                        

 「匹夫」を「微賎(びせん)の者」の意味にとってもよいが、「三軍」の対句として、「一人」としておこう。

 孔子様がおっしゃるよう、「大軍で守っている大将をとりこにすることはできても、ひとりの人間の志を動かすことはできない。」

 古註に「三軍の勇は人に在り、匹夫の志は己に在り。故に師は奪うべく、志は奪うべからざるなり。もし奪うペくんば、これを志と請(い)うに足らず。′


『新訳論語』 講談社学術文庫

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