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多摩のむかし道と伝説の旅 №25 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

       鑓水商人の夢の跡、絹の道・浜街道をゆく 9
                   原田環爾

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26-1.jpg 緑道を抜けて新田間川に出ると旧道は一旦途切れてしまう。続いて新田間橋から新横浜通りに入る。通りの前方にはランドマークタワーが天を突いている。通りの前方には巨大な平沼橋が見える。平沼橋の袂まで来ると、通りの右傍らの街路に入る。100mも進めば帷子川に架かる元平沼橋の袂に出る。かつての横浜道が通っていた道筋だ。目を挙げれば現代の平沼橋が川を跨いでいる。残念ながら元平沼橋の先はJR東海道線が遮って進むことができないので、一旦平沼橋を経由して横浜道の続きである平沼商店街通りに入る。 商店街の路面には『横浜道』と記したパネルが埋め込まれている。京浜急行本線のガード下をくぐり敷島橋で石崎川を渡り、東海道を横切ると横浜道は今では戸部通りと呼ば26-9.jpg26-2.jpgれている。左手には一段と高くそびえるランドマークタワーが目に入るようになる。やがて掃部山公園を左に見て坂道を上がる。公園の名は園内の丘に日米修交通商条約を締結して横浜開港に導いた大老井伊掃部頭直弼の銅像が立っていることによる。明治14年(1881)井伊大老を追慕する彦根藩士有志により、開港に際しての功績を顕彰するため、記念碑建立の計画をたて、明治17年掃部山と称し造園を施し、明治42年(1909)園内に銅像を建立しこれを記念した。大正3年(1914)井伊家より同地並びに銅像を横浜市に寄贈、掃部山公園として公開された。

26-4.jpg26-5.jpg 掃部山公園を左にやり野毛山へ向かう。上りきった所の左手に戸部役所と呼ばれたかつての神奈川奉行所跡がる。横浜開港に伴い司法・行政、関税及び外務全般の事務を取り扱った。野毛山に奉行所が設けられたのには別の理由があると言う。庶民と外国人が接触することを恐れた幕府は、開港場を東海道から野毛山で隔てられた辺鄙な横浜村に置き、横浜道は野毛山に切通して開削した。その折もし開港場に異変があった時はこの野毛山を

砦にする意図があったと言う。
26-6.jpg 野毛切通しの坂を下り交差点を左折して野毛坂通りに入る。交差点の右手に野毛山公園がある。野毛山公園になる前の幕末の頃は、野毛山の麓まで入海が迫り、開港場がよく見える風光明媚な所で、生糸売込商の原善三郎や茂木惣兵衛の別邸があった。
 更に野毛坂通り進むとほどなく都橋にくる。下を流れるのは大岡川だ。橋を渡り左から根岸線の高架が接近してくると吉田橋の袂に至る。橋を渡ると右側に関内駅がある。吉田橋の橋上には「史蹟 吉田橋26-7.jpg関門跡」と刻まれた石柱が立っている。かつてここに関門があり、これより先は外人が居留する開港場ということで、庶民が出入りすることは厳しく制限された。関内、関外という呼び名はこの時から生まれた。なお関門は明治4年(1871)に廃止されている。
 根岸線のガードをくぐり関内に入ると、馬車道となる。ガス燈風のレトロな街灯が文明開化当時の風情を醸し出している。馬車道を進み、幾筋化かの通りと交差すると前方左に重厚な県立歴史博物館の建26-8.jpg物が見えてくる。その手前の通りが絹の道の終着点となる弁天通りだ。原善三郎等の生糸売込商が軒を並べていた所だが、今は何の変哲もないビジネス街に過ぎない。なお弁天通りの名は通りの西端にある弁天橋の袂に弁天社があったことによるが今はない。幕府は弁天通りの西側に日本人居留地を建設し通りを整備した。開港直後の通りには、外国人向けの商品、漆器・陶磁器・木細工・絹織物などを店頭に陳列した店が軒を並べたという。(この項 完)

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