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余は如何にして基督信徒となりし乎 №63 [心の小径]

第十章 基督教国の偽りなき印象-帰郷 4

                     内村鑑三

 『救拯(すくい)の計画の哲学』には哲学的知恵をしてその心の満足するまでたずさわらしめよ。救拯の事実があるのである、そして哲学も非哲学も事実はこれを無くすことはできない。人間の経験は、我々がそれによって救われなければならないところの、人々のあいだに与えられている、天が下の他のいかなる名をも、未だ知らなかったのである。遺徳学については我々は十分以上をもっている。それはいかなるPh・D(哲学博士)も、大なる謝礼を払いさえすれば、我々に話すことができる。我々に教える博士はなくとも、我々は盗んではならないことを知っている。しかし、おお、盗みということの多様なそして精神的な意味において、盗むなかれ、である!『我を仰ぎ見よ、そして救われよ。』『モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない、それは彼を信じる者が、亡びないで、永遠の生命を得るためである。』この彼を仰ぎ見ることに我々の救拯がある、その哲学は何であろうとも。基督教十九世紀の歴史が余にそう教えるのである、そして余の小さな霊魂もまたそれがそうであることを(神に感謝すべきことには)証言することができる。
 これが、それならば、基督教である。すくなくとも余にはそうである。神の子の贖(あがな)いの恩恵による罪からの救いである。それはこれ以上であるかもしれぬ、しかしこれ以下であることはできない。これが、それならば、基督教の神髄である、そして法王、監督、牧師、その他の有用無用の附属物はそれの欠くべからざる部分ではない。そういうものとして、それは他の何物にもまさって有つ価値がある。いかなる真実の人もそれなしにやって行くことはできない、そして平安はそれなしに彼のものであることはできない。

ウェブスターは基督教国を定義して『異教国あるいは回教国と区別され、基督教が広く行われている、あるいは基督教的制度の下に統治されている世界の部分』とする。彼はそれが完全な天使の国であるとは言っていない。それは基督教が広く行われている、あるいは人民の大多数によってそれが彼らの生活の導き手として仰がれているところである。二つの要素、信仰と信仰者とが、いかなる国民でもその実践的道徳を決定する。兇猛なサクソン人、海賊的なスカンジナビア人、快楽好きのフランス人が、ナザレの神の人の教によってこの世において自分自身を制御しようと試みつつある、—それは我々が基督教国で目撃するところである。それならば彼らの不逞(ふてい)のゆえにいかなる非難をも基督教の上に帰することなかれ、むしろ彼らのような虎を抑えるその力のゆえにそれを賞讃せよ。
 もしこれらの民に少しも基督教がなかったならば如何。もし彼らの掠奪を制し彼らを正義と寛容とに転ぜしめる一人の法王レオも彼らのもとになかったならば如何。仏教と儒教とは彼らにはアポリネーリス水が慢性消化不良におけると同様であろう、—不活性、無味、動物性の回帰、永遠の破壊であろう。わずかに戦闘の教会が金銭万能主義(マモニズム)、ラム酒貿易、ルイジアナの富くじ、その他の極悪無道に対し反対の陣を布いたことによってのみ、基督教国は即刻の破滅と死とに転落しないでいるのである。長老教会牧師の子で芸名をロバート・インガーソルという人が言った、我が国はその教会のすべてを劇場に転換する方がよいであろうと。彼がそう言ったのは彼の国がけっして彼の忠告に従わないことを確信していたからである。我々は基督教国の『獣性』について何を言おうとかまわない、その病気そのものがそれを活かしている生命の活力を託するものではないか。
 それならば最大の光にともなう最大の暗黒というこの光学現象を観察せよ。影はそれを投ずる光が明るければ明るいだけ淡いのである。真理の一つの特性は悪をより悪とし善をより善とすることである。何故これがそうであるかを尋ねることは無用である。『おおよそ持っている人は与えられていよいよ豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるであろう』、—道徳においても経済におけると同じである。蝋を溶かすその同じ太陽が粘土を固まらせる。もし基督教がすべての人に対する光であるならば、それが悪を善と同様に発達させることは不思議とは思われない。それゆえ我々は当然に基督教国において最悪の悪を予期してさしつかえない。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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