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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №8 [文芸美術の森]

                          シリーズ≪琳派の魅力≫

         美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                第8回:俵屋宗達・絵、本阿弥光悦・書
                    「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」 
        (桃山時代。一巻。13.5m×34cm。重文。京都国立博物館)

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≪絵と書のコラボレーション≫

 これまで、琳派の先駆である絵師・俵屋宗達のことを語ってきましたが、今回は、俵屋宗達が「絵」を描き、その上に本阿弥宗悦が「書」を書いた作品、つまり二人のコラボレーションによる作品「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を紹介したいと思います。

 本阿弥光悦(1558~1637)の家は、代々、刀剣の鑑定や砥ぎによって室町時代の足利将軍家に仕えた名家であり、京の上層町衆でした。
 王朝文学や能楽などの素養もあり、才能豊かだった光悦は、書、絵画、陶芸、漆工芸などの分野でも活躍し、一種の「アート・ディレクター」的な役割を果たしました。

 俵屋宗達と本阿弥光悦は、この作品のような、絵と書が共鳴し合う合作をいくつも残しています。
 今回紹介する二人の合作は、宗達が金銀泥で下絵を描いた上に、光悦が和歌を書き連ねた、長さが13mを超える長い巻物です。
 そこに宗達は、岸辺の鶴の群れが飛び立ち、宙を舞い、上ったり下りたりしながら、また岸辺に舞い降りるまでの姿を、流れるような動きとリズムで描き分けています。その上に、本阿弥光悦は「三十六歌仙」の和歌を書き連ねました。光悦の書は「光悦流」と言われるほど、個性的なものでした。
 この長巻のすべてをお見せできないので、その冒頭の部分を上の写真に掲げました。宗達が描いた鶴の数は全部で百羽を超えていますが、この部分を手掛かりにして、千変万化する鶴の飛翔を想像してください。


8-3.jpg≪絵と呼応する書体≫

 和歌巻の最初に描かれている絵(右図)は、岸辺で憩う鶴の群れですが、鶴たちはだんだんと頭をさげつつ、次の飛翔に備えています。(このあと、ぱっと飛び立ちます。)
 そこに本阿弥光悦は、柿本人麻呂(人丸)の次の和歌を書きました。

 「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」

 光悦が描いた「人丸」の「人」という字が、あとで書き入れたように小さく脇にかかれていることにお気づきだと思います。おそらく、光悦は、最初に宗達が描いた鶴の絵のあまりの見事さに息を呑み、いざ筆を執って書き出さんとするときに、一気に書こうと意気込んだあまり、つい「人」の字を書き忘れてしまい、あとから書き入れたのではないか、と想像します。
 
 和歌を書いている部分では、宗達の下絵の鶴の姿に呼応して、光悦の書体も変化しています。
 たとえば、体を膨らませて立つ最初の鶴たちの姿に対応して、「保濃‥‥当」(ほのぼのと)の「保濃」を濃く太く、丸みを帯びた書体で書き始めています。
 しかし、歌の後半部分の「しまかく禮行くふねをしそ思ふ」(島隠れ行く舟をしぞ思ふ)のところでは、鶴たちの直立する細い首と脚に呼応して、「し」というひらがなや「行く」という字を同じような真っすぐな細い書体で書いています。見事な呼吸というべきか。

 ここでは全部をお見せすることはできませんが、ほかの部分でも、絵と書が響き合ったコラボレーションが展開されます。
 これを、光悦や宗達が嗜んでいた能楽の「地謡の間合い」に例える人もいるし、「ジャズのセッション」とか「音楽のデュエット」に例える人もいます。
 
 もともと、和歌などを書くための料紙を美しく装飾すると言う趣向は、平安時代から盛んに行われてきました。しかし、その場合には、あくまでも和歌が主役であり、下絵はあくまでも書の控えめな引き立て役とされてきました。
 ところが、俵屋宗達と本阿弥光悦は、平安王朝の装飾美の伝統を継承しつつも、絵と書が対等に響き合って展開する、新しいスタイルの和歌巻を生み出したのです。

≪文字もデザイン要素≫

 ちなみに、近代以前の西洋美術では、絵の上に直に文字が書かれるということはほとんど見られませんでした。(19世紀後半になって、日本美術の影響を受けたロートレックやミュシャなどが、そこからヒントを得て、ポスターなどで絵と文字の組み合わせによるデザインをやっています。)

 大学時代に私が「西洋美術史」の教えを受け、その後も多くの学恩を受けている高階秀爾先生によれば、「西洋では、ルネサンス以来、絵と文字は別の領域だった。もし、絵画に文字が書かれるとすれば、そのためにわざわざ設けた部分に書くとか、空いた部分に書いた」とのことです。そういえば、お隣の中国の詩画(漢詩と絵が描かれた絵画)でも、空いている部分に詩句や文章を書いたりしています。(高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』筑摩書房)

 ところが日本美術では、「文字」もまた、「絵」と対等の美術的なデザイン要素であるという美意識にもとづいて、平安朝以来、長い間、ごく自然に絵と書のコラボレーションが行われてきました。これも、私たち日本人にはごく当たり前に思われてきたことが、実は日本的な特質だったということのひとつです。

 このような、書と絵が一体となって、流れるように響き合う美の世界が生まれた背景には、直線的な文字である漢字を書き崩して、曲線的な「ひらがな」を発明したということも大きく影響しているでしょう。

 さらに、世界でもまれな文字体系である、日本独特の「漢字かな交じり文」について考察すると、そこにも日本文化の特質が浮かび上がって来て面白いと思うのですが、私には任が重いので、やめておくことにします。
 “絵画と文字”、“和歌とことばの視覚的共鳴”ということについて、私が大いに啓発されたのは、琳派の専門家である玉蟲敏子氏の先駆的な研究です。関心のある方は、氏の著書を読んでみてください。(例:玉蟲敏子著『日本美術のことばと絵』:角川選書、ほか)

 次回は、また俵屋宗達の絵に戻り、宗達が京都の養源院の杉戸に描いた「唐獅子図」と「白象図」を見てみたいと思います。


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