正岡常規と夏目金之助 №12 [文芸美術の森]
子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承
子規・漱石 研究家 栗田博行 (八荒)
第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ
随筆「吾幼時の美感」の掲載は、明治31年12月新聞「日本」でした。残りの命を想い、あの108文字墓誌銘に自分の生涯をまとめたのが明治31年7月13日の夜のことでしたから、この子規子(血を吐く鳥を名乗ったペンネーム)の名で発表した文章も、命の残り時間を想う流れの中で書いたことでしょう。
しかし、迫ってくる死への予感がもたらす湿り気のようなものは、あの墓誌銘と同様、この文章にも全く漂いません。むしろ幼い日に心惹かれた美しいことを思い出し、それを次々と列挙していく快感に身を任せているような感があります。
満2歳すぎに体験した生家の全焼のことは、自分はその時、
バイ へ (提灯のこと)バイ へ と躍り上りて喜びたり、
と母は語りたまいき。・・・
と綴られ、美しくも可笑しみのある原体験として描かれていました。
負ぶわれていた母・八重の母性の深みまで伝わってくる文章でしたが、むしろ筆者子規子自身はそのことに無自覚だったかもしれません。ただ、「と母は語りたまいき。」との敬語表現に、八重さんに先立って逝くかもしれない自分…という自覚の念が思わず反映したかもしれませんが …。その一節のあと筆の流れは、
我家は全焼して僅に門を残したる程なりければ、さなくとも貧しき小侍の内には、我をして美を感ぜしむる者何一つあらざりき。
と、微かに不幸感の漂う幼な児であったことを伺わせます。ですが、表現しようとしたのは不幸感の対極にあるものだったようです。すぐこう続けています。
七八つの頃には人の詩稿に朱もて直しあるを見て朱の色のうつくしさに堪へず、吾も早く年とりてあゝいふ事をしたしと思ひし事もあり。
満6歳の頃八重さんの父・祖父大原観山の塾で、漢学を学び始めたのでした。そこで年上の子らの添削を受けた習字を目にしたのです。そしてその添削の朱と黒の交わる筆跡を見て「吾も早く年とりてあゝいふ事をしたし」と感じたというのです。また、
ある友が水盤といふものゝ桃色なるを持ちしを見ては其うつくしさにめでて、彼は善き家に生れたるよと幼心に羨みし事ありき。
という風に、「全焼した貧しき小侍の内」という不幸感はあったものの、それは美しいものへのあこがれの方に、自分の心がいざなわれたことを思い出しているのです。
22歳の時、落第と脳病に見舞われた親友・大谷君に、自ら「子規」と始めて名乗って、彼と自分を励ましたのと同じような心動きが、31歳の子規の筆の運びにも働いていると言えましょう。
(八注・それにしても「美しい桃色の水盤」などというものを筆者は見たこともないのですが、広辞苑によると中に水を張って花を活けたり、盆石を置いたりする水盆という事です。(笑)
それから幼い吾が目に映った美しいものの列挙が始まります。
こればかり焼け残りたりといふ 内裏雛一対紙雛一対、
見にくゝ大きなる婢子様一つを 赤き盆の上に飾りて三日を祝ふ時、
五色の色紙を短冊に切り、芋の露を硯に磨りて庭先に七夕を祭る時、
此等は一年の内にてもつと楽しく嬉しき遊びなりき。
明治3年満3三歳になる年、妹・律が誕生します。以来「全焼した貧しき小侍の内」で、父・隼太、母・八重、曾祖母・小島ひさ、妹・律という家族の暮らしが続いていたのです。
いもうとのすなる餅花とて正月には柳の枝に手毬つけて飾るなり、
それさへもいと嬉しく自ら針を取りて手毬かゞりし事さへあり。
昔より女らしき遊びを 好みたるなり。
「昔より女らしき遊びを 好みたるなり。」この男の子は、こんな風だったらしいのです。男児のお祝いの端午の節句の記憶は、この随筆「吾幼時の美感」では、ひと言も述べられません。正岡家が貧しくて女の児のひな祭りしか出来なかったとは思えません。火事のあと別の所に新築された正岡家は、貧乏とは言え百八十坪の敷地に玄関も床の間も客間もあるような屋敷だったのですから。その家の跡取りとして育てられたこの男の児は、数え年の五歳となる翌明治4年、袴着のお祝いしてもらっているのですが、河東碧梧桐が八重さんから聞いた話として、
○上下着の時には…紋付をこしらへて、
上下は佐伯の久(父方親戚)さんのを譲つて貰ふて、
大小は大原(母方親戚)の元のを貰ふてさしましたが、
何様背が低いので、大小につらされるやうぢやと笑はれました。
(母堂の談話・碧梧桐記)
このことは子規本人は書いていませんが(笑)、八重さんの話はこう続いています。
背が低かつたのはえつぼど(かなり)低かつたと見えて、
大原の祖父(八重の父)が、朝暗いうちに門に出て居つて、
何か知らん小さいものが向ふから来ると思ふと、
それが升ぢやつたなどと話を よくして居りました
そんな男の子であったにもかかわらず、處之介君は武家の家系の正岡家の男の子として、維新後にもかかわらず満5歳くらいから髷を結っていました。殿様へのお目見えの儀に備えてのことでした。(時世の流 れで実現はしませんでしたが…。)
明治5年父・隼太は隠居し、髷ノボさんは正岡家の戸主となります。ところが二か月もしないうちに父・隼太は病没。八重さんは、大きく実家大原家に頼らざるを得ませんでした。
八重さんの父で幼子規をよく訓育したという、祖父・大原観山は、「終生不読蟹行書」(=横文字・英語の本)という言葉も吐いたというくらいの西洋嫌いの漢学者で、維新後も髷を落とさなかったような教育者でした。子規は数え年九歳の時までその方針のもと髷をつけたままで育ちました。2歳年上の兄弟のようにして育った従兄弟半の三並良も髷のママで、その父という人が、嫌がる二人のために観山翁に嘆願して、ようやく髷を切るのが許されたのでした。そのあとのことです。
○髷を切つて後も小さい刀をさして居りましたが、余戸(父方の郷村)の祭りで田舎へ行きました時、誰かゞ抜いて見い ヘ といふたけれども 抜けませんのを、陰へ廻つて 裏の畑へ出て自分でどうやらかうやら抜きましたら、手を斬りましてな、それでうちへは辟(帰)れないといふので、シク ヘ 泣いて居つたこともあります(八注・もちろんこの事も本人はどこにも書きとめていません(笑)。)
八重さんの、あの「よつぽどへぼで へ 弱味噌でございました」という言葉は、芯から幼子規をとらえていた母性の冷静な把握の顕れだったのでしょう。
しかし八重さんだけではなく、兄のために石を投げたりして兄の敵打を」してくれる ような妹や、「目も鼻もないやうに優しう」してくれる溺愛型の曾祖母にも恵まれて、その「弱味噌」さは、むしろ感受性の成長の豊かな土壌となって行ったのでした。
明治の一男子の成長過程で、そういう事が起こったのであることを、先に引いた「昔より女らしき遊びを好みたるなり」という回顧の言葉は証言していると思えてなりません。そして幼い命の成長過程で先ず最初に獲得されるのは、実は男の子であれ女の子であれ、「たおやめぶりの心(=女性的なるもの)」であるのが一般なのではないかと、思えてなりません。
「石を投げたりして兄の敵打を」した律さんの場合は、例外というより、すでに身につけていた「たおやめぶりの心」が、ひ弱なお兄ちゃんに対しては、もう「母性的なるもの」に成長しかけていた証拠だったのかもしれません(笑)。
律さんに庇われた弱味噌であったことなど全く触れずに、随筆「吾幼時の美感」は続きます。この続きの一節、縦書きでご覧に入れます。
「東京へ行く其の叔父」とは加藤拓川・恒忠。明治16年、渡欧する直前に子規に上京の機会をあたえ、友人の陸羯南に託した点で子規の生涯の土台を作ってくれた叔父さんです。大原観山翁の3男で、八重さんの2番目の弟にあたる人でした。この人がおねだりした甥っ子に東京から上級品の百人一首を贈ってくれたのです。明治8年、ノボさん8歳の頃でした。
その曽禰好忠の一葉に、うたのこころの方ではなく、扇の朱色に心ひかれたと回想しているのです。明治初期、武家の家系の跡取りとなった幼い男の子に宿った、女らしき遊びを好みたる=「たおやめぶりの心」の一端です。
つづく「十二三の頃…」の一節には、「畫など習はずもありなんとて許さ」なかった八重さんの姿が、無心に書きとめられています。そこから、貧しい家計を切り盛りし一人息子・ノボを武家の家系の戸主に育てていこうとする、母親としての深い心うごきが浮かび上がります。
実は、このあと十四、五歳のころ少年子規は、三畳ほどの書斎を作って貰っています。兄弟のように育ち髷も一緒に落としてもらったあの三並良が、こんなことを語り残しています。 (三並良「子規の少年時代」)
お母さんが、近所の女の子に、裁縫を教へて居たので、座敷は終日ふさがって居た。
(ノボさんの書斎の)新築はその為めだらう。
家計のために「裁縫を教へて居た」八重さんは、ノボの為にこんなこともしたのでした。
父の早逝という不幸はあっても、このような親心にくるまれて育ち続けているのですから、ノボさんの気分は「畫を習ふ」のを「許されず」とも、いじける方には傾きません。「其友の来る毎に畫をかゝせて僅に慰めたり」と、いじらしい方へ向かうのです。いつの世も変わらない「子育てと子育ちの両方の機微」といったものを、伺わせてくれる情景です。
ここから随筆「吾幼時の美感」は、次のように展開します。
ノボさんよ、アンタが「幼時より客観美に感じ易かりし」は、「貧しき家」に生れたお陰だったんだね…」と、幼な子をからかうように、からかいたくなります。あの大いなる子規が、その頃は「常に他人の身の上の妬ましく感ぜられぬ。」ような少年だったとは…。
ところが例によって子規子の筆は、そこから明るく前向きな価値=この場合は、おさな心が惹かれた美=の回想に向かい、活き活きと進みます。述べられている幼い頃の不幸感は、あくまでそのためのイントロに過ぎないかのように…。そして、
「ひとり造化は富める者に私せず」…造物主だけは貧富の差別なく、貧しい家ながら草や木や花々がいつも芳しい香りを放って、不幸なる貧児を憂鬱より救ってくれたと述べた上で、
「花は何々ぞ」(それはどんな花々だったかというと)と、転じます。
そこから始まる百歩ばかりの庭園で幼子規の心をととらえたものの、キリもないかと思えるほどの列挙・そして到達する「吾幼時の美感」の結論とするところ…それがこの随筆の後半になるのですが…、次回にさせていただきます。
次回5月1日、正岡常規と夏目金之助 №12
豌豆と空豆の花の記憶 幼少期の子規① つづきのつづきのつづき
お楽しみください。
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