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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №2 [文芸美術の森]

第一章一枚の絵の発見 2

         早稲田大学名誉教授  川崎 浹

美術学校への進学を反対されて

 宇朗より十二歳年下の弥寿こと野十郎自身は、最初から画家をめざして美術学校への進学を望んだが、両親が同意しなかった。定職のきまらぬ長兄宇朗の例もあり、詩人や絵描きを職業にするなど、当時の親としては考えられなかった。また、ちょうどその頃、明治四十年(一九〇七)、二十五歳の青木繁が父親を亡くして帰郷しているが、一家を支える能力に欠け、画家としても最盛期をすぎ放浪の生活を送っていた。
 野十郎は名古屋に新設されて二年目の旧制第八高等学校に学び、東京帝国大学農学部水産学科に入学した。学業優秀で特待生となり、銀時計組に推薦されたが、栄誉を身につけたくないとでも思ったのだろうか、本人が辞退した。指導教授が残念に思い自分で銀時計を購入して野十郎にあたえた。後年、私が高島さんにつれられて級友だった元愛媛大学学長の香川さんを訪れた際、氏はにこにこしながら「高嶋君は優秀でしたね、首席といって
も我々の間ではずば抜けたトップでしたよ」と言ったことがある。銀時計を背にした若き野十郎の自画像は、教授への感謝の意を表したのか、過去の栄光を刻んだのか、或いは単なる記念写真だったのだろうか。
 学芸員の西本氏は、一年後の野十郎展をひかえて画家の足跡や人脈を洗いだし、調査済み以外の新しい作品を探すことが急務だった。絵と人脈、これは地下の水脈のように微妙につながっている。かれに幸運だったのは、野十郎を支えた友人、知人の多くが存命であり、さらに絵の購入者が野十郎の近親の愛好者で、かんたんに作品を手放さず、絵が比較的散逸していなかったことである。
 企画会議から半年を経た、昭和六十一年(一九八六)四月、西本氏は東京に出張して、関係者に会い、所有者の絵を確認して借用を取り決める五日間の日程をこなした。
 ただ一つかれに不運だったのは、高島さんの東大時代の学友、大橋祐之助が亡くなっていたことである。私は高島さんにつれられて医師の大橋氏と会ったことが何度かある。画家にアトリエを貸したり絵の購入者を紹介したり、高島さんに最も大きな支援をあたえた人ではなかったろうか。私が温厚な感じの大橋医師と何度か、とりわけ新橋で会ったことを、ぼんやり憶えていたのもむだではなかった。多田茂治氏の『野十郎の炎』によると大
橋氏は新橋で医院をひらき、夫人もまた女医で、彼女は大正初めに米独に留学し、パリの国際女医大会では日本代表として登壇し、「次回は日本で」と呼びかけたほどの女性だった。こうした事情で医院には有名人の患者も多く、当時ファッション・デザイナーの先駆けだったマダム・マサコもこのサークルの常連だった。
 初対面の西本氏はおもしろいことを言った。「高島さんが今もご存命だったら、私が展覧会の交渉に伺っても、すんなりと応じてくださったかどうか」。かれは実在する数々の絵や、画家と緑のあった人びととの連日の出会いで、画家がすでにこの世にいないとは思えなくなっているような口ぶりだった。私は西本氏に野十郎の絵三点を確認してもらい、高島さんとの出通いのいきさつを話した。

『過激な隠遁』 求龍堂

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