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渾斎随筆 №28 [文芸美術の森]

山口剛君のこと 2

                  歌人  会津八一

 それについて思ひ出すことが一つある。或時私は『早稲田中學講義銀』の記者に「人間の修養は終生の仕事だと云ふけれどもそれは間違である。少くも云ひ過ぎである。修養した後に必ず発表の時代がなければならない。草花に例へても、鉢値にそろそろ蕾が出て居るのに、まだ肥料をやるやうなことをして居ると、かへって蕾が落ちてしまふ。肥料をやる時代に充分やっておいて、蕾が出た後は毎日水を遣る位のことで宜しい。一生涯修養といふことは間違でなくとも、少し云ひ過ぎである」と、こんな風の話を筆記して貰ったことがある。それを山口君が読まれたものと見えて大変いゝことを教へて貰ったといふ挨拶をされたことがあるが、それは丁度その頃の事であった。そんなつまらない話でも、その常時の山口君としては何か深く胸に應へられるところがあったものと見える。ところが発表時代に入られた山口君は寔に春風春水一時に至り、梅櫻桃李一時に発するの趣きがあって、支那の古文學、たとへば詩経や楚辞のやうなものでも或は元明の小説でも、日本文學では古事記、萬葉の昔から、現代に至る迄、殆んど同君の手の觸るゝところ一として燦欄として見事な花の咲き出ないところはなかった。たとへば魔法使の棒の先が、何者をも花にして了はなければ済さないやうな慨があった。昔は黙々として只管研鑽にいそしんで居た「不言斎主人」は忽ち驚くべき雄辯となり、暢達で特色の強い文體の持主となった。それであるから最近数年問の我が學園に於ける山口剛君の聲望の抜群であったことは當然であるが、その當然さの由って来るところは、かうしたわけであったのである。
 そこで叉私が思ふのは、近来の山口君を尊敬する學生諸君の中には、山口君が昔如何なる時運の下に、如何なる修養に力められたかといふことを知らずに、目の前の熟し切った山口君、咲乱れた山口君の面影に恍惚としてゐる人はなかつたか。従って最近の山口君の一言一行をそのまゝ驚嘆して居る人はなかつたか!。山口君の晩年の圓熟振は、山口君の青年時代からの修養の収穫であるから、それだけ切り離して模倣するといふことは決して意味を成さない。晩年の山口君は、折々奇抜な服装をしたり、興に乗じては私などから見ると随分華やか過ぎる物の言方をされたこともあるが、それは山口君特有なものであって、側から真似すべきものではない。山口君の思索や論理には他人の襲用を許さないものがある。山口君の説明の仕方、山口君の物の譬へやう、山口君の理窟のこね方は、山口君の素質と趣味と素養から来てゐるものであるから、それだけを真似しても何うなるものでもない。私は山口君を失ったことについて個人としても、學園の一人としても眞に感慨無量であるけれ共、さういふ種類の崇拝家は決して山口君の主義にも本旨にも適ふものでないと信じて居る。山口君と私とが始めて交りを結んだ頃から屡々言換したことがある。何うも早宿田出身の文學者は一つの型に入って了ふやうである。吾々は互に相戒めて學問の上では先輩諸先生ともつと異ふ行方をして見よう。晩年山口君が、早稲田の学園として、異常な光彩を発揮されたのも由って来るところが此所にあるのである。
 私は山口君が半切に書かれた一幅の書を持って居る。私がまだ豊川町に住んで居る頃、或る日赤い毛氈を布いて私が字を書き出したのを見て、「おれにも一つ書かせてくれ」といふことになつて、私の大きな筆を持って、『梁塵秘抄』の中にある
  佛は常にいませども
  うつゝならぬぞあはれなる
  人の音せぬ暁に
  ほのかに夢に見え給ふ
といふ一首の歌を筆太に書かれたものである。恐らく山口君畢生の傑作であらう。私としては無二の寶であるが、此度それを遺族の方々に差上げることにした。その歌の文句のやうに、山口君の姿も、そして横山君の姿も、もはや人の音せぬ暁に思浮べるよ。ほかにしやうもない事になって了つたのは、淋しいことである。  (昭和七年十二月六日夜)


『会津八一全集』中央公論社


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