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いつか空が晴れる №54 [雑木林の四季]

    -陸軍分列行進曲―
                     澁澤京子

 you tubeで「学徒出陣」のフィルムを見てみると、学徒出陣壮行会にはこの曲が伴奏されている。古い白黒のフィルムの中で行進しているのは、学徒出陣で出征する若い学生たち。この曲は明治時代に、日本に来日したルルーというフランス人の作曲したもの。現在でも自衛隊の行進曲になっている。軍隊の行進曲はどこの国のもそうだけど、勇ましくて、そして物悲しい。

お正月に小さなレストランで、私の通っているお寺の新年会があった。私の前に座っていらっしゃったのはNさん。お寺の中でも一番古い参禅者で単頭(坐禅中に廻って警策を入れる人のこと)もされていた。もともとは筑波の研究所にいらした科学者で、今は引退されている。
「どなたか、太平洋戦争に出征した方がご家族にいらっしゃるは方いらっしゃいますか?」Nさんが席を立ちあがって、みんなに呼びかけをされた。戦場でのリアルな記憶を若い人に語り継いでいこうという、戦場資料記念館の仕事に関わっているらしい。
「家には96歳の父がおりますが・・・」ということでNさんは我が家にやってくることになった。
娘というのは、父親の戦地での体験を正面切ってはなかなか聞きづらい。私も父からいろんな話を聞けるいい機会ではないか。

今にも雪の降りそうな、どんよりと曇った寒い日に、Nさんは戦場資料館をボランティアでお手伝いしている若い女の子三人を伴って我が家にやってきた。
「召集令状が来たのはいつ頃でしたか?」メモ用紙を片手に父の横のソファに座っているNさんが、口火を切って質問した。

父に召集令状が来たのは昭和18年の10月。父はまだ早稲田の学生だった。12月には近衛野砲連隊に入隊。現在の昭和女子大のあたりで、入隊してすぐに軍馬の乗馬と世話が始まった。
「入隊されてどう思われましたか?日本は勝つと思われましたか?」ボランティアの女の子が質問する。
「だって、大砲を馬で運んでいくんですよ・・しかもアメリカはレーザービームがあるのに、こっちはサインコサインの三角法で目標を割り出すんですから。」
みんな、これでは負けるんじゃないかと思いつつ、そんなことは口に出せずに黙々と訓練を受けていた。

翌年の12月、輸送船でマニラに送られることになった。すでに物資のないころの輸送船だから見るからに貧弱で頼りないつくりの船だったという。
輸送船12艘、護衛艦12艘、マニラに着いたのは、父が乗っていた輸送船ともう一艘だけ。あとはグラマン機と魚雷によって途中で沈没した。
グラマン機と魚雷の来襲を受けた夜、父はもう死ぬと思い、禁じられていたが甲板に出た。なぜか恐怖心はなく、現実感もなかった。隣の護衛艦が爆撃され、轟音と火花の中で沈んでいくのを、まるで夢のように見ていたという。
マニラの港に着くと、沈没した船から引き揚げられた日本兵の死体がたくさん並べられていた。

そして、父は要塞司令部に配属された。そこにあったのは一発撃つのに30分もかかる旧式砲で、日露戦争の頃に使っていたものだったらしい。
ある晩司令部から通達が来て、岩壁の軍装行李の見張り役を一名出せということになった。それを伝えに来たのは、Kという士官学校で一番優秀な成績を収めた青年だった。Kは「この役は俺が行く」と言って去っていった。みんな俯いて沈黙したままだった、行けば命がないことは誰もが知ってたからだ。父は、俯いたまま自分のエゴが心に痛かったという。
翌朝、Kの訃報が届いた、首にかけたロケットには婚約者の女の子の写真が入っていたそうだ。

入隊時、各自一冊ずつの本の持ち込みが許されていた。父が持っていたのは万葉集。カントの「純粋理性批判」をいつも読みふけっている、無口な京大の学生がいた。父が後にマラリアになったとき、彼はとても親切に看病してくれたそうだ。

また、マニラで大川平八郎(ヘンリー大川)に会ったこと、ガランとした薄暗い部屋に一人坐っていた。
父の軍刀を見ると「あなたはそれで何人人を斬りましたか?」というのが最初の質問だった。まだ、その経験がないことを伝えると「あれは、ぬれ手ぬぐいをはたくような、何とも言えん音ですな。」と、笑ったらしい。二枚目俳優の狂気のような目つきで、父は、日本の切羽詰まった状況がはっきりとわかったらしい。

「負けるとわかっていたのに、戦争には反対されなかったんですか?」とメガネをかけた真面目そうな女の子が質問した。
「あの時は、とてもそんなことを言える雰囲気ではなかったんですよ。」と父は答える。
「戦争というのは、なんかきな臭いなと思っているうちにある日突然始まってたりするんです。今、韓国とか北朝鮮とかアメリカとかが、なんかきな臭いことをやってるでしょう?そんなニュースが流れていているうちに突然始まってしまうものなんですよ。」

渡された、戦場資料館の資料には「語らずに死ねるか」という言葉が書いてあった。戦死した友人の腕を首にかけたまま行進した話など、かなり悲惨な話がたくさんそこには書いてあった。
・・・そして、本当に語りたかった人たちは、皆死んでしまったのだ。

夕方暗くなってから、Nさんたちは帰ることになった。
玄関のところでNさんが長靴をはくのに手間取っていらした。まるで、軍靴のようながっしりした黒い長靴だった。
「雪が降るっていうから、長靴を履いてきたんですよ。」
ありがとうございます、と言ってNさんと女の子たちはにぎやかに帰っていった。
その日は、夜になっても、結局雪は降らなかった


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