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バルタンの呟き №52 [雑木林の四季]

1945・3・10 東京大空襲

                映画監督  飯島敏弘

 「あれは、まあ、言ってみれば、ゴミ焼却炉の感覚だったんだな、アメリカさんは・・・」というのが、あの夜、そして、さらに逃げる先逃げる先、追い回す様に、4・13、5・25と立て続けに、B公(B29爆撃機)から放たれて、祭り提灯のように光の群れとなって空を流れ、やがて降り注ぐ火玉の雨となって家々の屋根を突き破る焼夷弾と、文字通り紅蓮のごとき数々の炎が、身辺を囲んで咲き競い、焔と熱風に追い回された日々を振り返ってみての、現在の思いです。
 「それにしても、日本の首都東京の大規模空襲の目的は、生産拠点、軍事施設爆撃とは全く性質の異なる、まさしく戦闘員非戦闘員の区別など全く考慮されない首都の効率的無差別焼却殺傷作戦だったのだ」と、74年の月日を経て、戰爭というものの非情さに、あらためて震えおののく次第です。
 あの際の、パールハーバーの屈辱と報復に燃えた彼らの脳中には、計画通りに燃えさかり、拡がり、蛇の舌が舐めるように地表に這い拡がって、みるみる焦土化してゆく炎熱の下界の光景を確かめ見るにつけ、彼らがひたすら完璧に焼却しようと開発した武器、新型油脂拡散焼夷弾をまき散らす、眼下の、無防備な木材と紙の夥しくひしめき合う住居群に、超高密度で肩を寄せ合って命を繋いでいる人々がいることを、木と紙と草で造られた狭い座敷に、重ね餅に敷かれた綿布団にくるまって寝ている沢山の幼な子たちや、古びた綿の掻巻きに包まり、もはや闘いなど思いもつかない老人たち、そして、いままさに人世の春に咲こうとする夢多き少年少女がいることが、一かけらでもあったろうか・・・否、と断じるほかはない思いです。

 僕、昭和7年(1932年)生まれ、今年新たな元号の誕生日を迎えれば87歳、あの日から74年、未だにあの時のトラウマを引きずる少国民たちの一人です。
 人世は、当然、その生まれ年によって、様々です。殆んどの人々は、そこまで暮らしてきた人生を振り返る時、我々の世代は、と、なにか生まれ年に依っての特別な特徴をあげて語ろうとします。
 僕たちの世代の特徴は、まさに少国民だったことです。先日も、ある宴席で、正面に相席して杯を交わした僕より少し先輩が、
 「貴方のように、直立した姿勢で、肘を張って、杯を傾けるご仁には、久しぶりに出会いましたな・・・」
と、指摘されましたが、もちろん私には、軍籍にあった履歴はありません。細かくは、すでに募集を取りやめていた海兵(海軍兵学校)をあきらめて、陸軍幼年学校に願書を提出したところで終戦を迎えていますから。前席の先輩に指摘された動作は、国民学校(小学校)時代に、担任教官たちによって徹底的に仕込まれた少国民教育の残滓に他なりません。
 あのころ、マスコミの王者だった新聞の紙面にも、ラジオにも、少国民という呼称は、充満していました。
 僕が生まれた時には、日本の植民政策の拠点として、満州国は建立されていましたし、5・15事件、2・26事件、と、政治的緊迫は、刻々と緊迫して、皇国と聖戦の思想統一の政策は敷かれていましたが、僕ら、こどもの世界には、兵隊ごっこがあり、将来僕は兵隊さん、あたいは看護婦さんになりたい、が、将来の望みを問われた際の定番ではありながらも、まだまだ戦争は、遠い満州や支那(双方とも中国)で、兵隊さん達がやっているものでした。
 尋常小学校初等科に入学するにあたって、文部省制定の国語教科書は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」、修身は「キグチコヘイハ シンデモ ラッパヲ ハナシマセンデシタ」になりました。それでもまだ道端での遊びは、かくれんぼだったり、メンコ、ベーゴマでした。
 
 昭和16年、尋常小学校が、国民学校に変ります。先生方は、文部省令で改めて国策的な思想教育講習を受けるし、学校教育の基本になる、教育指導要綱も、
尋常小学校 「児童の身体の発達に留意して道徳教育及び国民教育の基礎並びにその生活に必要なる普通の知識技能を授くるを以て本旨とする」
国民学校 「皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成をなすを以て目的とす」
 という風に変って、僕たちの遊びも、鬼ごっこが水雷艦長、チャンバラが戦争ごっこ、はまだしも、お正月の松飾りが廃止されて、竹馬の技を競う楽しみも消えて、かるた、花札、トランプが、軍人カルタなどという、ちっとも心はずまぬ代物になり・・・

 そもそも、少国民とは、僕らが生まれる以前、はるか昔に、児童、少年の精神的規範と、道徳精神の向上を願って、山本有三や、吉野源三郎が設立した少国民文庫から発祥した言葉だったのですが、政府の富国強兵政策を遂行するにあたって、当時の僕たち少年を、国策に沿った少年戦士に育て上げようとする目的に移行した呼称なのです。
 昭和16年9月、情報局が、児童を少国民と呼称することを決定して、山本有三の提案で、日本児童文化協会が、日本少国民文化協会となり、マスコミの中心である新聞や、唯一の社会情報伝達機関であるNHK日本放送局のラジオ、少年雑誌などがこぞって普及させていった呼び名なのです。開戦当初の赫々たる戦果、紀元2600年記念事業などの頃は、僕たちさえも誇らしく感じた少国民の呼び方も、次第に戦況が緊迫して、はっきりと、一億玉砕、一人一殺という声に応えて、ちっぽけな体に重い銃剣を担がされて長距離行軍したり、銃剣(銃の先端に装着した短剣)で、上陸してくる鬼畜米兵を刺し貫く訓練を厳しくされるなど、まったくの少年兵士育成と、徹底した皇国思想の注入の呼び名になってしまったのです。
 少国民は、いまや死語となり、手元の辞書にも、年少の少年少女の意(太平洋戦争中の言葉)としかありません。
 忘却とは忘れ去る事なり。敗戦後のアメリカ民主主義普及の為のラジオ(テレビは無かった!)に関わったアメリカ軍CIEの民主化路線で生まれた人気ドラマ「鐘の鳴る丘」や、その後の、アメリカ映画「哀愁」をヒントに大ヒットした「君の名は」の菊田数男が連発した語句が発祥だった、かの名言、「忘却とは忘れ去る事なり」は、今の日本を顕す名言だと痛感するのです。

 辺野古新基地。決して同盟国日本の防衛の為に役に立つことなく、アメリカの防波堤としての軍事基地を、しかも、日本がカネを出して築いてくれるのだから・・・
 如何にして、いまや滅びんとするアメリカ自動車産業と、戰爭が必須で、無ければ困るアメリカ軍需産業を守るための、電子、サイバー、無人機戦争化で、もはや必要性に乏しい新鋭戦闘機発注や、超速新鋭ミサイルにけっして追いつくことが出来ない迎撃ミサイルを 購入、周辺国の危機感を煽る政策・・・
 「自衛隊の方々がプライドを持って、(他国の)戦争に参加することが出来る法制」の確立。その結果、「戦争をしないプライド」の自衛隊員を死地に追いやるかも知れない事態からの入隊希望者激減の対策に、自治体を追いこんで個人情報の収集・・・その先に、来るものは、赤い紙。
 「兄ちゃん!大学なんか行かなくたって幹部候補生になれるんだよ・・」駅頭の勧誘で、中学生の兄貴まで、特攻基地に連れ込んだ・・・あの手法。

 少々、気品には欠けますが、「〓忘れちゃ嫌よ」って歌がありましたよ!


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